自得さん (御井高良山)

自得の祠

「自得祠」は
「宮路嶽神社(神功皇后を祀る)」、
「桃青霊神社(芭蕉を祀る)」
と三つ並んだ左端にあります。

*)高良山自動車道、愛宕神社より少し上、自動車道の左側から少し登った場所。

*)祠の右側面の文字

奉造立石像宮殿 壹宇
文化元申子歳   願主 自得
九月吉祥日  石工 萬人講中
               秦幸市則高

*)祠の左側の碑:
「新清水修堂料畑」

高良山の座主第55世の伝雄僧正さんな歌、読み書きもとてん出来ちゃったが、勤皇の志士とも広う交際(ツキヨ)うて肝魂も太かっけ侍のごたるとこんあった。

ある年の暮れ、見知らん侍が尋ねち来て、
「あるこつから武士の意地で人ば殺し国元ば逐電、方方身ば隠し、流れ流れとったが僧正さんの徳を耳にしたけん御相談に来た、僧正さん御心に従いますけ一喝を賜り助けち下さい」ち頼うだ。
よう見るともう罪の深さば充分知って善人になろうち一心になっとるとがわかったもんで、
「山に匿うわけにゃでけん、せめて山下の清水観音堂の堂守でもして、殺した人の後生を願うたが良かろう」ち訓さっしゃった。

武士はそりから頭ば丸めち仏門に入り、殺した人の冥福ば祈るかたはら、村の者(モン)が感心するごつ骨身惜しまず働いて、雪の日も雨の日も托鉢に出た。
そんな無垢の姿に行く先々から自得さん自得さんち信頼され、昼飯、晩飯ば出してくるるとこも多うなった。

そのうち観音堂ば修復したら良かろち進めてくるる者(モン)も出てくるごつなった。中でん片原町の紅屋次吉ち言う人が中心になって骨折ってくれた。自分の努力とそげなこげなの喜捨善意で何年目かにはとうとう御堂建替えが叶うた。

自得は思いのかのうた御堂で懺悔供養の毎日ば送りよったが、そこに艱難辛苦何年ち親の仇ば探し求めとった若侍がやって来て名乗りを上げち斬ろうとした。
自得は「もう覚悟も出来ていつ討たれても悔いはなか、この位牌の前で斬って下され」ち念仏唱えて座った。参りに来とった信者達が、中に入って「まー待って下さい、この自得さんは今日まで殺した方の供養のため、こげな御み堂まで建てられて、人殺しの罪ばつぐないござる。どうか掟とは言うても、この上あながた人を斬り悪行輪回をいたさるるな」ち止めた。
若侍は気ば静め自得さんば見つめ、そん大悟した姿に討つこつば止めて、ただせめてと自得さんの衣の袖ば切り取って国に帰っていったち言う話。

筑後1,13 25


高良山の第55世座主の伝雄僧正さんは、歌、読み書きにも優れていたけれど、勤王の志士とも広く交際があり、肝っ玉も大きくて侍のようなところがあった。

ある年の暮れ、見知らぬ侍が尋ねてきて、「あることで武士の意地から人を殺し、国元から逃げてあちこちに身を隠し、流れ流れていたけれど、僧正さんの徳を聴いたので、相談に来ました。僧正さんのおっしゃることに従いますから、何か言葉を賜り、助けて下さい」と頼んだ。
よく見ると、もう自分の罪深さを知って善人になりたい一心であると分かったので「山にかくまうわけには行かない。せめて山下の清水観音堂の堂守をして殺した人の後生を祈るのがよかろう」と諭された。

武士はそれから門に入り、殺した人の冥福を祈るかたわら、村人が感心するほど骨身を惜しまず働いて、雪の日も、雨の日も托鉢に出た。
その姿を見て托鉢に行く先々から、自得さん、自得さんと信頼され、昼飯・晩飯を出してくれるところも多くなった。

そのうちに観音堂を修復したら良いと進めてくれる人も現れるようになった。中でも片原町の紅屋次吉という人が中心になって骨を折ってくれた。自分の努力とそのような喜捨、善意によって何年目かにはとうとう御堂の建替えが叶った。

自得は思いの叶った御堂で懺悔と供養の毎日を送っていたが、そこに何年もの間苦労して親の仇を探し求めていた若侍がやって来て、名乗りを上げて斬ろうとした。 自得は「もう覚悟もできて、いつ討たれても悔いはない。この位牌の前で斬って下さい。」と念仏を唱えて座った。 お参りに来ていた信者達が中に入って、「まあ待ってください。この自徳さんは今日まで殺した人の供養のためにこんな御堂まで建てられて、人殺しの罪をつぐなっておられる。どうか掟とはいっても、この上にあなたが人を斬って悪行の輪廻をされますな。」と言って止めた。 若侍は気を静めて自得さんを見つめ、その悟りを開いた姿に仇討ちを止めて、ただせめてもと自得さんの衣の袖を切り取って国に帰ったという話。

高良山茶屋「望郷亭」
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