背比べ石(御井)

今から千七、八百年ばっかり前の話。
九州征伐に来られた仲哀 天皇さんが筑前でのうなんなさったけ、そんかわり皇后の神功さんが筑前から道々、賊どんば征伐して筑後に進うで来らしゃった。
いよいよ山門の大将、田油津姫ば征伐せにゃんが、あいてがとても強かもぢゃけ家来の仲 にゃ戦う前からえすがる者が出けち来た。
大将ん家来の武内宿禰も、この調子なら勝ちきらんか知れんち思うち、神功皇后に、「今までん賊 よりか、とてん強かけ、よっぽど用心ばして戦わにゃ勝ちきりまっせん。家来どんが勇気ばだすごつして下さい」ち言うた。
そりから皇后さ んな家来全部ばつんのーて高良山 のてっぺんに登られち、天の神地の神に祈らしゃった。そうして山ば下りよんなさった所が登っ時ぁ無かっ たつに道にいっちょ石の立っとる。

神功皇后さんな喜うで、全部の家来に「今こゝに神のお示(シメシ)が出てきた。 石よか、あたしの背が高っかったなら戦いに勝つが、低かったなら負くるち言うおしらせぢゃ」ち大声で言われた。
家来だん石の方が高っか しとてん皇后さんが背くらべで勝ちゃなさらんち思うたが、皇后さんがなそん石と背くらべせらしゃった。ところが皇后さんがその石の所に 行かしゃったら、高っか石がズブズブっち低うなって皇后さんがチーッと高うなった。高こうならしゃった石ぁ沈むとば止めた。

さー家来だん、そりば見て神々が自分達ば勝せちくれなさる。こんならよーしうんと戦うぞち勇気ば出した。そげんして山門の田油津姫ば征伐に出かけられたち言う話。
こん背比石ぁ高良山旧参道ん馬蹄石んにき今でんある。

翁・豊国筑紫路の伝説68


訳)

今から千七、八百年ほどの昔、九州征伐に来られた仲哀天皇さんが筑前で亡くなったので、そのかわりに神功皇后が筑前から、途中の賊達を征伐して筑後に進んで来られた。
いよいよ山門の大将、田油津媛(タブラツヒメ)を征伐しなくてはならないが、相手がとても強いものだから戦う前から怖がる家来が出て来た。
家来の武内宿禰も、この調子なら勝てないかもしれないと心配し、神功皇后に「今までの賊よりもとても強いから、よほど用心して戦わなければ勝てません。家来達が勇気を出すようにして下さい」と言った。
それで皇后は家来全部を引き連れて、高良山頂に登り、天地の神に戦勝祈願をした。そうして下山していると、登るときには無かった石が一つ道に立っていた。
皇后さんは喜んで家来達に「今、ここに神のお示しが出てきた。この石より私の背が高ければ戦に勝つが、低ければ負けるというお知らせだ」と大声で言われた。
家来たちは、どう見ても石のほうが高いし、皇后さんは背比べでとても勝てないと思ったが、皇后さんはその石と背くらべをされた。ところが皇后が石の傍らに行くと、高い石が、すぶすぶと低くなって皇后さんが少し高くなったら石は沈むのを止めた。
家来たちはそれを見て、神々が自分たちを勝たせて下さる。これなら、よーし、うんと戦うぞと、勇気を出した。そうして勇んで田油津媛征圧に出かけられたという話。
この背くらべ石は今も、高良山旧参道の馬蹄石の近くにある。

*)「神功皇后は土蜘蛛を率いていた山門の田油津媛(タブラツヒメ)を討伐した」とされます。
土蜘蛛(つちぐも):天皇に恭順しなかった土豪たちで、日本各地に記録され、単一勢力ではなく、蜘蛛とも無関係。)
山門郡(瀬高町と山川町)は、2007年三池郡高田町と合併→みやま町となる。(wiki)

正面から見ると三角形ですが、横から見ると三角錐に近い形の石です。
地面からの高さ130cm・横幅190cmありました。・・・とすると、神功皇后の身長は何cmあったのか?では当時の人たちの平均身長は?石はまだ沈んでいるのか?・・・・いろいろ疑問が沸いてきます。
石の横に立つ制札には
「神功皇后が朝鮮半島への出兵を前に、この石と背丈を比べて吉凶を占われたとの伝説がある。古代の石占いの習俗を伝えるものであろう。
菱屋平七の「筑紫紀行」(享和2年・1802)には「勢比石」と見える。」と書かれています。


参考:柳川市大和町鷹尾には鷹尾神社があり、

ここの山門前に左の「神功皇后行啓遺跡」の碑があります。
また、境内には皇后の腰掛けたという石もあります。
地元の人たちは、神功皇后を歓迎したと伝えられています。

(10月の「ハンヤ舞」)

昔、近くに田尻氏の居城・鷹尾城があったところです。

高良山茶屋「望郷亭」
kurumenmon.com