勝水 (御井)

  奥の院「勝水」

7世紀後半、仏教が高良山に入ると高良の神の本当の姿(本地)は毘沙門天であるという信仰が起り、奥宮(奥の院)の神は毘沙門天とされました。
「毘沙門岳」や「毘沙門谷」の地名もこれに因むものです。
「初寅祭」は年初や月初めの「寅の日」に参詣すると、特にご加護を頂くことができるという毘沙門天信仰に基づくもので、明治の初め、毘沙門堂が水分(ミクマリ)神社と改められた後も絶えることなく、毎月初めの寅の日に執り行われる伝統の祀りです。

高良大社社務所の現地解説板より

左手の水場が「勝水」。水量は昔より減った。神社・途中の参道も、右手は急傾斜の山林地


昔話)

福童原の合戦に負けた懐良親王の軍勢は、
高良山に陣取って南朝の勢力挽回を計ったが、北朝の侍大将今川了俊に夜昼なしに攻められち、八百人ばっかりが討死してしもうた。敵の今川勢も三千人以上の兵士ば失うたが、猶高良山を攻め立てて来る。
こっちは大将ん菊池武光も死んで、わずか十二才の菊池賀々丸が侍大将で軍勢も減ってしもうたいま、とても今川勢に勝つこつは難しかと思われた懐良親王は最後の合戦で、全員討死の決心をされた。菊池一族、それに残った武士たちば集められて別れの杯をなさった。
陣中で酒は無かけん、毘沙門嶽の奥に湧いとる清水を汲んでの水杯。皆がさー、いさぎよう討死しょうちその杯を飲み干した時、
どうしたこつか今まで十重二十重に高良山ば取り囲んどった北朝今川勢が、さっさと太宰府さん引上げ始めた。
稲の穂の色づき始めた筑後平野ば太宰府さして幟幡(ノボリバ タ)ば秋風に踊らせながら、ホラ太鼓ば鳴らして引上げていく。
懐良親王はこりば見て天の助け地の助けち喜ばれ、こりも一重に毘沙門天の御偉力と感謝され、別れの水杯に汲んで来た谷の清水ば「今から勝水と言おう」ち喜びなさった。

筑後3、1 28

奥の院入り口(鳥居横)の解説板より

高良大社奥宮(奥の院) 古くは「高良廟」、「御神廟」と称し高良の神である武内宿禰の葬所と伝えられていた。高良山信仰の原点ともいうべき聖地である。
付近の地名を「別墅(所)」といい、白鳳7年(678)開山隆慶上人が、毘沙門天(高良の神の本地)を感見して毘沙門堂を建て、天竺国無熱池の力を法力で招き寄せたのが、この清水であるという。
鎌倉時代の貞永元年(1232)には、惣地頭代形部丞中原為則なる者が、五十の石塔をここに造立供養したというが、現存しない。
次いで南北朝時代には、征西将軍懐良親王の御在所となったとの説もある。
中世末の記録によれば、ここには戒壇が設けられていたとある。恐らく現存の石積の壇を指すのであろう。
壇上には室町時代の石造宝塔が立つ。
江戸時代の申頃、山中の極楽寺を再興した僧即心は、晩年ここに籠もって念仏修行したという。
明治初年の神仏分離により、毘沙門堂は「水分神社」と改められたが、「あらゆる願い事を叶えてくださる神様」として、高良大社の数ある末社の中でも、今日特に厚い信仰を集めている。

高良大社社務所

訳)

福童原の合戦に負けた懐良親王の軍勢は、
高良山に陣取り、南朝の勢力挽回をしようとしたが、北朝の侍大将、今川了俊に昼夜の区別なく攻められて、800人ほどが討死してしまった。敵の今川勢も3000人以上の兵士を失ったが、それでも高良山を攻め立てて来る。 こちらは大将の菊池武光も死んで、わずか12歳の菊池賀々丸(武朝)が侍大将で軍勢も減ってしまった今では、とても今川勢に勝つことは難しいと思われた懐良親王は、最後の合戦をして全員討死する決心をされた。 菊池一族、それに残った武士達を集められて別れの杯をされた。 陣中で酒がないので、毘沙門岳の奥に湧いている清水を汲んでの水杯。 皆が、さあ、潔く討死しようとその杯を飲み干した時、 どうしたことか、今まで十重二十重に高良山を取り囲んでいた北朝の今川勢が、さっさと太宰府へ引上げ始めた。 稲の穂の色づき始めた筑後平野を太宰府を目指して、幟幡を秋風に踊らせながら、ホラ太鼓を鳴らしながら引上げていく。 懐良親王はこれを見て、「天の助け、地の助け」と喜ばれ、「これもひとえに毘沙門天の御偉力だ」と感謝され、別れの水杯に汲んで来た谷の清水を「今から勝水と言おう」と喜ばれた。


注)
今川了俊(今川貞世の法名)1326年生まれ-1420年没(異説あり)鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。名高い歌人でもある。
了俊は九州探題の職を離れた後、遠江堀越郷(現・袋井市)に住み堀越氏(遠江今川氏)が始まる。はじめは遠江守護。同族の駿河今川義元の影響下にいたが対立、子孫は江戸幕府旗本として存続。


延元元年(1336)後醍醐天皇は征西大将軍として九州に当時8歳の皇子・懐良親王を派遣、彼を奉じた菊池武光(15歳)は、毘沙門岳(高良山の山頂)に城を築いて征西府とした。

延文4年/正平14年(1359)7月、懐良親王(31歳)、菊池武光(38歳)、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝勢約4万は筑後川北岸に陣を張り、大宰府を本拠とする北朝・足利勢の少弐頼尚・直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら約6万と対峙、両軍合わせて約10万の大戦闘、南朝方が勝利。(大保原合戦)

合戦後、幕府が今川了俊を九州探題として派遣する迄、太宰府は南朝が支配(約10年間)。
1372年8月、武光は親王と共に高良山に退去

文中2年/応安6年(1373)11月16日に武光死去。享年は52と言われている。


文中3年(1375)8月 菊池武朝、武安らは筑後川を渡って福童原(古戦場跡)に陣し、北朝方の山内、毛利、深堀らの軍と交戦。北朝の了俊が加わり敗退して、9月17日再び高良山に退く。
*)「勝水」はこの時の話ではないかと思われます。
菊池武朝(正平18年/貞治2年(1363) - 応永14年3月18日(1407年4月25日))菊池氏の第17代当主で満12歳の時(幼名は賀々丸)

参考(wiki)

高良山茶屋「望郷亭」
kurumenmon.com