不動金しばり(御井)


不動明王

昔ぁ、娘が家でしたり、大事なかもんのわからん時ぁ、不動さんに願かけよった。
どうして不動さんに願かくっときくかち言うと、手にもっちゃる法縄でもうどこさんでん動かれんごつして、見つかし良かごつしてなんなさるけんげな。こりば不動金縛、ち言うとたい。
そりゃ何処ん不動さんでん聞かっしゃるが、高良山の不動さんが一番効果(キキメ)んあるち言われとった。
鳥居くぐって高速道路ん下から旧参道ば三十米も登った左手にござる不動さんたい。
初手は下向(ゲコウ)坂んほんな下んとこに祀っちゃったつば御一新の時、応変隊のバカどんが「仏様てんなんてん糞くらえ」ち谷さん突落(オ)てとった。そりば勿体なかち村ん者(モン)が此処さん運うで祀ったげな。願の叶うたなら鉄ん鎖ばお礼に上ぐるもんぢゃけ、今でんばさろ御み堂ん中にかかっとる。

ふるさと御井2 45


訳)

昔は、娘が家出したり、大事なものが分からなくなったときは、不動さんに願を掛けた。
どうして不動さんに願掛けするのかというと、手に持っておられる法縄で、どこにも動かれないようにして、見つけやすいようにして下さるからという。これを不動金縛りと言う。

どこの不動さんでも聞いて下さるが、高良山の不動さんが一番効き目があると言われていた。

大鳥居をくぐって高速道路(九州自動車道)の下から旧参道を30mも登った左手におられる不動さんだけど、はじめは下向坂のすぐ下に祀ってあったのを、ご一新の時、応変隊の馬鹿たちが「仏様とか糞食らえ」と谷へ突き落とした。それを勿体ないと村の者がここまで運んで祀ったそうだ。

願いが叶ったなら鉄の鎖をお礼に上げるので、今ではこれがたくさん御堂の中にかかっている。


毎年の地蔵盆の後日、8月28日の夜(?59年からは朝に変わる)には「よど」があり、有志や近隣の人達の手でお茶やかぼちゃ、大豆の煮た物が供えられ、ご詠歌も歌われてお詣リをする人々のお世話をする姿もあったという。(現在は?)
*)高良山57代座主亮恩が願主として、当初玉垂宮本殿南坂下の一軒茶屋横に祀られていたといわれ、明治2年(1869)の神仏判然令で谷に投げ込まれていたのを、里人が神域外に運んだという。例年8月28日にヨドが持たれ、遠来の参詣者も多かった。病気・遺失物・家出などの願をかけて成就のお礼に鎖を奉納する習俗があり、この不動に願をかけることを「不動しばり」といっている。(久留米市史5巻379)

「下向坂」を探して。旧の参道鳥居横に「下向坂」の標識を発見。この鳥居から大社へ行く階段が「下向坂」なのですね。その付近に不動明王があったということになります。

また、高良大社本宮への正面石段が「本坂」。高良大社の正面石段が戦後に奉納されるまでは、下向坂の石段を使用していたようです。

高良山中を少し歩くだけでも多くの墓石(江戸時代のが多い印象)が散乱していたり、旧寺院の後の標識がたくさんあり、明治の廃仏毀釈による影響・被害の大きさを感じます。

若衆塚(御井)

昔ぁ仏様の身変りが神様ち言われとったもんぢゃけ高良山も、本手どんの玉垂宮さんなそっち除けになってお寺が二十七、八も建って天台宗の九州本山のごたる模様ぢゃった。
坊さん、寺ざむらい、そして寺小姓ち言う若衆までおって、そりゃぁ賑かなもんぢゃった、
ところが明治の御一新で神様の御身内の天皇さんが天下ば治むるごつならしゃったけ、
「神様の身変りが仏様」ち逆になってしもうた。逆になっただけなら良かったが、廃仏毀釈ち言うて仏像てろん仏具ば放(ホ)してち天皇さんにあたで忠義面する者んがばさら出て来て新政府も困るごつあった。
特に高良山の座主亮俊が佐幕派ぢゃったもんぢゃけ久留米ん百姓てん町人ば集めち出けた勤王派の応変隊ち言う兵隊どんが、高良山に登って来て不動さんば突ッ転がす、石の地蔵さんの首ぁ刎ぬる、寺は打くずすで、そりゃ乱ボーローゼキしたか放(ホー)でのこつするもんぢゃけ気の弱か者(モン)な山ば下りてしもたが、寺侍やら若衆だん腹けーち応変隊と戦うたろち言うもんたい。
ところが多勢に無勢ぢゃけ、どんどん斬りたてられちとうと皆んな国分とん境の丘んあすこんとこでで斬殺されちしもうた。勝った応変隊の奴だん御井町で町の者に難題吹かけち皆から毛虫のごつきらわれたが、斬死した若衆達ぁムゾなげ良か人ぢゃったつにち皆が 同情して、殺されたとけ塚ば建てち年々供養ばしてやるごつなった。そりが若衆塚たい。

ふるさと御井2 50


訳)

昔ぁ仏様の身代わりが神様と言われていたので、高良山も本手の玉垂宮さんはそっちのけになって、お寺が27、8も建ち、天台宗の九州本山のような状態で、坊さん、寺侍、そして寺小姓という若衆までいて、それは賑やかなものだった。
ところが、明治の御一新で神様の身内になる天皇が天下を治めるようになられたから「神様も身代わりが仏様」と逆になってしまった。

逆になっただけなら良かったけれど、廃仏毀釈といって仏様や仏具を放り捨てて天皇にあたで(ことさらの意?)忠義面する者がたくさん出て来て、新政府も困るほどだった。

特に高良山の座主亮俊は佐幕派だったから、久留米の百姓やら町人を集めた勤王派の応変隊の兵隊達が、高良山に登って来て、不動さんは突き転がしたり、石の地蔵さんの首を刎ねる、寺は打ち崩すなど、乱暴狼藉、やりたい放題のことをするものだから、気の弱い者は山を下りてしまった。

寺侍や若衆たちは腹を立てて、応変隊と戦ってやるといったけれど、多勢に無勢で、どんどん斬りたてられて、最後には国分との境の丘のところで斬殺されてしまった。

勝った応変隊の連中は御井町で町の人たちに難題をふっかけるから皆から毛虫のように嫌われた。

斬り死にした若衆たちはかわいそうに本当に良い人だったと皆が同情して、殺された場所に塚を建てて年々供養をすることになったのが、若衆塚だ。

注)

廃仏毀釈により、多くの仏像などがうち捨てられたのですが、土地の人たちは、それらの仏像を自宅に持ち帰り、大切に祀られたことも教えて頂けました。
この若衆塚が現存するのか場所等も不明です。

また、不動明王の基礎に神籠石が使われたが、コンクリートで塗り固められたという話も聴きました。

高良山茶屋「望郷亭」
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