愛宕神社


久留米市御井町字礫山

火迦具土神:[ほのかぐつちのかみ]という二尊(伊弉諾:いざなぎ/伊弉冉:いざなみ)の御子で、火を司る神・勝軍地蔵(愛宕権現:地蔵菩薩の垂迹神)が祀られています。

牛馬の神様としても有名で、特に毎月四の日(馬の祭日)には、筑後一円から馬を連れた参詣者が多く、潮井水を売るものや、酒屋・うどん屋も立ち並び、明治末年頃はたいそうな賑わいを見せたそうです。

万治3年(1660)49世座主・秀賀法印により隈山に勧請されたのが始めで、
寛文10年(1670)50世座主・寂源僧正は現在地(礫山)にこれを鎮座しました。

昔、農作業などで牛・馬は大切な労働力でしたから、
このような石の馬を奉納したと思われます。

また、由緒書には「この山に古くから鎮座し、「愛宕稲荷」と呼ばれた稲荷社は、明治8年(1875)宗崎稲荷山に遷座されましたが、これが現在の「大学稲荷」だと伝えられている。」とあります。

参考にしたもの:大学稲荷の由緒書(現地)
(要確認:御井町史)

千度詣り

拝殿の階段前、
木の枝を受け取り、鳥居と拝殿を往復するごと、葉っぱを一枚づつ箱に入れて拝みます。
これを繰り返して参加者全員で千度詣ります。
古くから続けられている行事です。

境内の石畳横にゴザが敷かれ、並んだテーブルの上に飲食物がたくさん用意されます。
千度詣りが済むと、拝殿でお祓いを受けたあと、
「直会:なおらい」といって一緒に飲食物を頂きます。それで神事が終わります。

このあと、拝殿に上がってお祓いを受けます。

(2016年4月3日:午前中は雨が降らなくてすみました。
10時頃、岩不動にお遍路さんがお参りに来ると聞いて、すぐに移動しました。)

昔話では
「矢取の人達は、前夜に不吉な夢を見た長老の話で見物を中止したので火事の被害に会わずにすんだ」とあり、矢取では3月11日に「愛宕さん籠り」を続けています。

(詳しい昔話

延命地蔵台座(六角形)碑文(上隈山墓地:久留米大学西側にある)

「文化十酉(1813)3月27日夜・・・戯場(「高良山雑記」では[朝妻の芝居場])の大火で数十人が死亡した」と記されています。

(1面)延命地蔵経台座
(2面)
文化十発酉年三月二十
七日於此地戯場周中忽
再大火焔為老幼郡集
嘆□孫動之中郎比而死
亡者乃数十人見攅眉
聞者傷心於戯挙一持夢
(3面)文化十発酉十一月
    現梅林九世記之
(4面)
境奇百年幻躯誰不敢嘆
嗟也干茲南山會裏阿州
端首座為信男信女募花
縁以挙造立六道能化尊
客伏各々霊位■無明
焔窠浴■巻清泡■云
(5面)大乗妙典
(6面)三界万霊
上記碑文(2面)(4面)の訳:
「文化十年三月府中芝居小屋の火事」
文化十年(1813)三月二十七日、此の地で芝居が行われているうち、たちまち大きな炎があがり、老人・子どもが驚き騒ぐうち、死亡する者が数十人に及んだ。数十人の者は夢ではないかと思い、誰でも嘆かずにはおれない思いをした。
ここに、南山の集まりで阿波の国の生まれの瑞和尚が善男善女から、寄付金を集めて地蔵の像を造ることを思いたった。亡くなった人達よ、無情な焔のことなど忘れて極楽の清い水をあびて成仏して下さい。

胆焼:
(※)江戸時代、村役人(庄屋・名主)を肝煎り(胆入り)といい、世話役と同義と思われる

愛宕山の修験者によって広まった愛宕信仰

修験道の役小角と泰澄が深く関わる霊山愛宕山(京都)は、
伊勢(大神神社:三輪山)・熊野(熊野三山:熊野本宮・新宮・那智大社)にならぶ修験道場として栄え、江戸時代中頃から修験者が愛宕信仰を日本全国に広めました。

修験道の役小角と泰澄が深く関わる霊山愛宕山(京都)は、伊勢(大神神社:三輪山)・熊野(熊野三山:熊野本宮・新宮・那智大社)にならぶ修験道場として栄え、
江戸時代中頃から修験者が愛宕信仰を日本全国に広めました。


愛宕神社の正面鳥居を出て、石段を下ると岩不動があります。

下宮社の裏に役の行者像があります

高良山茶屋「望郷亭」
kurumenmon.com