久留米空襲

昭和20年8月11日 午前10時20分から約20分間、雲ひとつない青空。
市の西南方面から侵入した米艦載機P26・ P38の約50機が焼夷弾を投下した。
使用された焼夷弾は6ポンド(=2.7kg)油脂弾。
最初、金丸校→久留米ホテル→国鉄久留米駅付近の順に投下。
防火目的で貯水についてあらゆる方策を取っていたが、資材不足のため不十分だった。
いたる所の水道が破裂して使用不可となっていた。
町には真っ黒な煙がたちこめ酸素不足と火災による熱風で 大混乱となった。
第2回の空襲は午後4時30分頃、グラマン・ロッキード型の飛行機が10数機来襲し、
筑後川の国鉄鉄橋に爆弾を投下した。梅林寺方面に急降下爆撃をした。
鉄橋のレールを破損し、一時、汽車が不通になった。日本ゴム工場にも2,3の爆弾を落としたが大きな被害はなかった。小森野、山川方面でも機銃掃射した。

死者214名、重軽傷者176名、罹災戸数は4,506戸にのぼり、被害面積は市街地の約70%に達した。

空襲の1週間位前、市の上空で、空襲予告のビラをまいていた。
(表面にルーズベルトとスターリンの握手の絵・裏面に日本の略図、爆撃した都市とまだ爆撃していない都市を区別し、未爆撃都市には爆撃予定月を記入してあった。)

小頭町公園

福岡県久留米市

久留米空襲 戦災死者之霊碑
久留米空襲 戦災死者之霊碑

碑文

第二次世界大戦末期の昭和20年8月11日午前10時30分頃、わが郷土久留米市上空に現れた米軍戦爆連合(B24・B29・その他)約150機による油脂焼夷弾投下で炎天に乾き切った市内は、一 瞬にして猛火に包まれ地獄さながらの惨状となりました。このことは、有史以来私たちの祖先がかつて 経験したことのない災害であります。

この霊碑は、郷土防衛の犠牲となられた214名の尊い生命を悼み犠牲者を最も多く出した小頭町公園の一角に昭和27年8月11日建立されました。

久留米市においては、戦争の惨禍を二度と繰り返さないために、昭和59年7月に「久留米市は核兵器の廃絶と恒久平和を願う水と緑の人間都市である」と宣言し、平和事業を推進しています。

久留米市

*)当時、久留米医大では運び込まれる人であふれ、緊急を要する負傷者から治療していたが、順番争いがおこるので、やむを得ず受付順に診療をしたとか、亡くなった人をすぐに運び出す事も出来ず、白布を被せていたとか、死者の多さに対して人手不足、燃料不足のため、火葬場が間に合わず、死者を一時的に土葬したという話も残っています。

終戦直前の空襲だと考えると、たまらない気持ちになります。

*)8月11日には碑の前で慰霊祭が行われています。

また、医大の看護婦さんの姉は、数日前の昼間の大牟田空襲で、家の周りの火を消そうと外に出た時、焼夷弾が首から胴に貫通して即死。
久留米医大で業務に従事中、同僚から「あなたにそっくりの人が亡くなっていた」と教えられ、後日、大牟田の家に行くと庭にあった、血染めのワンピースを見て、姉の死亡を実感し、涙が出て止まらなかったそうです。

亡くなった姉には子供があり、日田で子供を施設に預け、昼間に働いていたのですが、ある時、父と施設長が合意の上で、姉に相談なく養子に出してしまい、姉は半狂乱になって探したけれど見つからぬうちに亡くなり、戦後になって探しあてた時には、その子は結婚していて、親族はようやく対面することができたそうです。

話を伺い、当時の状況を想像すれば、まるで波乱万丈のドラマを見るようですが、変わらぬ親子の情、第三者の親切についても本当に考えさせられます。

藤井華子氏に伺った話をまとめました。
引用文献:「続久留米市誌」下巻

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