赤司地域赤司の歴史は古く、2500年前にはじまります。良積遺跡や定格遺跡から、その時代の遺物や遺構がみつかりました。2000年前になると、多くの人々が赤司周辺に住みはじめます。良積遺跡がより大きな村となり、まわりに餅田遺跡や赤司一区公民館遺跡など新しい村ができはじめます。
9世紀後半、この地で筑後国司御酉(みとり)が暗殺されるという事件が起こったと伝わっています。その墓として良積石が残っていますが、詳しいことはわかっていません。
このころ、赤司の中心となる赤司八幡宮が創建されます。縁起によれば、最初に出てくる年号は924年ですが、神社のはじまりはもっと古いと考えられます。鎌倉時代(1192~1335)、赤司城が築かれます。このころから、赤司の村は現在の形になりはじめます。完成するのは、田中左馬充が赤司城主になったときです。城は江戸時代になると取り壊され、現在は地名として名残をとどめるだけになっています。

太古の昔から多数の人々が居住していたという事は
邪馬台国が九州に存在した説の有力な裏付けの一つでは・・・。
赤司八幡宮は、平安時代の延長2年(924)御井郡惣廟として創建されたといわれます。神社の「止誉咩神社本跡縁起」によると、はじめは「筑紫中津宮」と呼ばれていましたが、その後、延喜式内社の「豊比咩神社」(高良の神と並んで名神大社とされる)になったと伝えています。戦国時代に八幡宮と社号を変え、現在に至っています。
社地に赤司城が築かれたことを考えても、赤司氏をはじめ、草野氏や大友氏、田中氏などの多くの豪族から深い崇敬を寄せられていたことがうかがわれます。
毎年9月15日の放生会の花火は、昔ながらに盛大な祭りとして多くの参拝者を集めています。

赤司城がいつつくられたか、詳しくはわかっていませんが、はじめて文献上に「赤司城」が登場するのは興国元年(1340)ですから、鎌倉時代に作られたと考えられ、川や堀をめぐらせた平城で、赤司氏によって築かれたと伝えられています。
戦国時代には、大友氏・赤司氏・筑紫氏・秋月氏などの豪族により、戦略の拠点として争奪がくりかえされました。特に、大友氏は筑後進出に伴い立花(戸次)道雪などの重臣を城主や城代に任じ、統治させました。
慶長6年(1601)、田中吉政が筑後領主となり、弟の左馬充清政を赤司城主にしました。清政は赤司八幡宮の社地に城を修築整備しました。
元和7年(1621)、有馬豊氏が久留米藩主になると、一国一城の令により廃城となっていた赤司城の石垣を久留米城の修築のために使用しました。
現在では、わずかに堀のあとが当時の面影を偲ばせています。
*)田中左馬充清政:田中吉政の家臣。この城を守りここで没した最後の城主。
2008年3月31日改訂 久留米市(境内掲示板)を参照