赤司地域

その歴史

赤司(あかじ)の歴史:

赤司の歴史は古く、2500年前にはじまります。良積遺跡や定格遺跡から、その時代の遺物や遺構がみつかりました。2000年前になると、多くの人々が赤司周辺に住みはじめます。良積遺跡がより大きな村となり、まわりに餅田遺跡や赤司一区公民館遺跡など新しい村ができはじめます。

9世紀後半、この地で筑後国司御酉(みとり)が暗殺されるという事件が起こったと伝わっています。その墓として良積石が残っていますが、詳しいことはわかっていません。
このころ、赤司の中心となる赤司八幡宮が創建されます。縁起によれば、最初に出てくる年号は924年ですが、神社のはじまりはもっと古いと考えられます。鎌倉時代(1192~1335)、赤司城が築かれます。

このころから、赤司の村は現在の形になりはじめます。完成するのは、田中左馬充が赤司城主になったときです。城は江戸時代になると取り壊され、現在は地名として名残をとどめるだけになっています。

赤司の主な史跡

赤司の歴史 地図

1:良積遺跡
2500~2700年前の村の跡。1800年前になると、王が登場し、北野町の中心的な村となりました。
2:良積石
町内でもっとも古い石碑。貞和5(1349)年の年号が彫られていますが、平安時代の筑後国司の墓ともいわれています。
3:赤司八幡宮
元の名前を「豊比咩(とよひめ)神社」といいます。延喜式に出てくる式内社の一つ。
4:赤司城跡
北野町にあった唯一の城跡。鎌倉時代につくられ、江戸時代のはじめに取り壊されました。
5:田中左馬充清政の墓
赤司城主の墓。左馬充は最後の城主であり、赤司の村を現在の城下町として完成させました。
6:餅田遺跡
2000年前の墓地。甕棺墓43基、土壙墓9基がみつかりました。
7:定格遺跡
1700年前の村の跡。住居跡3軒がみつかりました。
8:赤司一区公民館遺跡
1700年前の村の跡。住居跡や貯蔵用の穴などがみつかっています。

太古の昔から多数の人々が居住していたという事は
邪馬台国が九州に存在した説の有力な裏付けの一つでは・・・。

赤司八幡宮:

赤司八幡宮は、平安時代の延長2年(924)御井郡惣廟として創建されたといわれます。神社の「止誉咩神社本跡縁起」によると、はじめは「筑紫中津宮」と呼ばれていましたが、その後、延喜式内社の「豊比咩神社」(高良の神と並んで名神大社とされる)になったと伝えています。戦国時代に八幡宮と社号を変え、現在に至っています。

社地に赤司城が築かれたことを考えても、赤司氏をはじめ、草野氏や大友氏、田中氏などの多くの豪族から深い崇敬を寄せられていたことがうかがわれます。
毎年9月15日の放生会の花火は、昔ながらに盛大な祭りとして多くの参拝者を集めています。

赤司城

赤司城がいつつくられたか、詳しくはわかりませんが、鎌倉時代に作られたと考えられ、川や堀をめぐらせた平城です。

築城者は赤司永通(草野氏の一族)と伝えらる。

  • 「興国元・歴応3(1340)、新田遠江禅師が大城の赤司城に拠った(肥前武雄社文書)」というのが初めて文献に登場するが、南北朝時代、新田氏一族がこの地方に勢力を伸ばしていたことがわかる
  • 大永3(1523)、大友氏の家臣、吉岡鑑貞、山下親俊が在城。後、大友氏配下の士豪、赤司氏が再び城主となる。
  • 永禄12(1569)、赤司資源が箱崎で討死し、秋月氏の支城となる。

「福岡県の城」著者:廣崎篤夫氏 海鳥社刊

慶長6年(1601)「関が原の戦い」後、田中吉政が筑後領主となり、弟の左馬充清政を赤司城主にしました。彼は赤司八幡宮の社地に城を修築整備、この城を守り、没した最後の城主です。

元和7年(1621)、有馬豊氏が久留米藩主になると、元和元(1615)、「一国一城の令」で廃城となっていた赤司城の石垣を久留米城の修築のために使用しました。
現在では、わずかに堀のあとが当時の面影を偲ばせています。

*)田中左馬充清政:田中吉政の家臣,で弟

2008年3月31日改訂 久留米市(境内掲示板)を参照

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