大川線

昭和8年4月以降走り始めたガソリンカー

大川線の休止

昭和26年9月、大川線の休止が実施された。この措置は、筑後川の水害防止のための建設省の改修工事の進行に伴い線路移設を迫られた結果であったが、この時点において、同線には機関車六両が配備され、列車は定員50名の客車1~2両連結程度で、最高時速20km/hで走るという前時代的存在となっていた。

しかし、大川~城島~大善寺間を往復する地元の足としては無くてはならない唯一の交通機関であったので、工事現場を避けた迂回線によって、大川~大善寺間22往復のバスによる代行輸送が開始された。

大川線は明治43年12月、大川軽便鉄道として誕生(大正元年12月30日開通)し、当時は時代の先端を行く乗物であった。

以来40余年、大川鉄道、九州鉄道大川線を経て、昭和17年西日本鉄道大川線と変遷を重ねたが、この間、三潴平野における運輸交通の動脈として活躍、その果たした役割は大きかった。

(注)首藤譲氏(株)有薫酒造の談話「城島の酒」では、明治40年に大川馬車軌道(大川-久留米間)が開通、小口の酒運送(大口は船で)に利用され、発展して大川線になったとのことです。

昭和8年ごろはバスとの対抗上ガソリンカーが走り、久留米の日本足袋(現日本ゴム)つちや足袋(→日華ゴム→現ムーンスター)の従業員を7割引という工員定期券で輸送して好評を博したり、また、日田方面の木材を大川の家具工場に、また糸島米を沿線一帯の醸造元に送りこむなど、地域の産業振興に大きく貢献してきた。

戦時中は燃料不足のため一時ガソリンカーを木炭車に改造したが、昭和18年以降、休止までは汽車だけによって、まだその健在を保っていたのであったが、時代の流れには抗しきれず、そのユニークな姿を消していった。なお同線は昭和41年5月6日、正式に廃止となった。

三潴の平野を走る6号車

三潴の平野を走る

当時の待合所

当時の待合所

大川線 若津車庫

従来の大川線 上久留米-榎津間19.8km
現在の大川線 大善寺--榎津間13.6km 昭和23年4月現在
現在の上久留米線 上久留米-津福間2.4km 昭和23年4月現在(運転休止中)
津福-大善寺間3.8kmは本線電車路線に切替 (昭和12年6月)

九州鉄道株式会社(現西日本鉄道株式会社)

九鉄は大川線と上久留米線を走る太田鉄道、福島線と甘木線を走る三井電気軌道から成立していた。しかし昭和23年7月に上久留米-津福間の上久留米線、同26年9月に大善寺-榎津間の大川線、同27年1月に旭町-四つ山間の大牟田市内線、同33年には久留米市日吉町-八女市福島間の福島線が休止又は廃止され、残存路線は大牟田本線、甘木線、大宰府線だけとなった、上久留米線は、大牟田線の津福-大善寺間軌間を変更して流用されると中断されてしまった。

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当時の交通路線「下久留米駅」は鳥飼小学校の東付近に、「終点上久留米駅」は縄手ガード下過ぎて豆津橋方面への道の交差点付近にあったようです。

明治41年(1908)1月に株主を募り、資本金15万円で、大川馬車軌道株式会社として設立され、4年後に鉄道敷設の認可を受け、大正元年(1912)12月25日、若津から城島を経由して久留米に至る18.8キロの線路上を走るローカル鉄道が開通した。旅客輸送だけでなく、大川地区特産の家具、酒、畳表などの貨物輸送も大きな目的でした。

大正2年1月には大川鉄道株式会社と商号を変更し、大正8年2月には、三潴軌道株式会社の路線の一部、大川~柳河間6.36kmを買収しました。大正10年1月には旅客・貨物とも増加し、資本も50万円に増資し、将来は大牟田へ延長する含みをもって、それまでの若津駅から800m延長し、榎津明治橋まで運転することになった。昭和12年6月九州鉄道が大川鉄道を合併しました。昭和17年9月、5社合併により西日本鉄道株式会社 大川線となりました。

久留米市縄手町から城島を経て大川へ走っていた大川鉄道は、小さな蒸気機関車が客車と無蓋の貨車を4,5両連ねてポッ・ポッ・ヒューと汽笛を鳴らして通るので、愛称ポッポ汽車とよばれてしたしまれました。
(昭和10年1月17日には、明治橋~大善寺間(西鉄大川線に改称)に縮小され昭和26年10月に廃止されます。

この機関車の性能は、自転車でも追いつける程度の速力で走り、
江島(城島)の坂などでは、黒煙を吐き出しながら喘ぎ喘ぎして越え、時には乗客が降りて後押しすることもあったという。

明治の末、城島の酒造業者らが樽詰めの酒を運ぶのに、荷馬車や船荷の他、もっと便利な搬送方法はないかと思案の末、登場したものである。

昭和8年ごろはバスとの対抗上ガソリンカーが走り、戦時中は燃料不足のため一時木炭車に改造したりと、41年の歴史を縫って三潴郡を筑後川沿いに走り、この地域の運輸交通の動脈として活躍しました。

その果たした役割は大きいものがありましたが、時代の流れには抗しきれず昭和26年(1951)10月に休止となり、
昭和41年5月に正式に廃止となりました。運行休止は沿線一帯の人々に限りない愛惜の情をいだかせたものでした。
このうちの一両は到津遊園に展示保存され、その昔をしのばせていました。

ここに展示されている機関車は、西日本鉄道株式会社の御厚意により、その蒸気機関車を平成7年4月に譲り受けたものです。

汽車前面汽車側面汽車後部

大川線SL(ポッポ汽車)

久留米市から
縄手町大善寺、早津崎、高三潴、草場、城島を経て大川迄、汽車が走っていった。
ドイツ製機関車が黒煙を吐きながら、汽笛を鳴らしながら客車や貨車を四~五両引っぱって走った。

ピッーポッー ピッーポッー

この大川鉄道は筑後川左岸の町や村を結ぶ唯一の交通機関であり、
旅客のほか大川の木工品、城島町の酒や瓦、その他沿線の産出品を運んだ。

停留所は、町内に早津崎、塚崎、草場の三駅があった。

大川線の営業区間であった大善寺駅の構内に立てば、転車台、低いホーム、
小型の客車、機関車など可愛らしい姿の車両たちを思い浮かべる。

到津遊園に保存されていたSLは、その機関車の中の一台である。

*)現在、三潴町高三潴道路脇に保存展示してあります。

運転席

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展示蒸気機関車の概要

車種   4輪連結タンク機関車 車号NO5(榎津~上久留米間)
製造会社名  独、伯林アーサーコッペル社 (明治44年1月製造)
連結器    スクリューカップリング
制動器 手動式
最大寸法 15’~5 3/4”×6’~2” ×9’~11”(長×幅×高)
       4718mm×1879mm×3022mm
機関車重量  7.8t
軌間     1067mm
客車定員   (1両)50名
最高時速   20km/h (客車2両、貨車1~2両連結時)

使用データは全て三潴町高三潴の機関車展示場、説明板のものです

参考:大川には国鉄佐賀線(総延長24.1km)が昭和10年に開通し昭和62年、国鉄分割民営化され、同年3月27日に廃止されました。

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