城島城

城島城跡と歴史

城島町教育委員会説明板(現地)城島城図

現地にある説明板を複製しました。

所在地 三潴郡城島町大字城島字本丸

この城は筑後川左岸の自然堤防上に、西牟田家周が1583年(天正11)に初めて築いた平城です。

1588年(天正14)島津義久が筑前の立花城、岩屋城を攻撃するさい、手始めにこの城を攻めたので、家周は肥前の竜造寺氏のもとに逃亡しました。

1587年(天正15)豊臣秀吉の九州平定後、立花宗茂が領主になると家臣薦野増時が入城しました。立花氏は関が原の闘いでは西軍に加わったので戦後改易されました。

1601年(慶長6)田中吉政が筑後一国の領主として入国し、家臣宮川讃岐が城主となり城郭を完成し、讃岐の死後は宮川十郎丸が城代となりました。

西牟田家周の頃の城の縄張りなどは不明ですが、田中吉政の頃には、城は平地より2m高く、面積約100a、湿地を天然の要害としたものでした。

周囲に堀をめぐらせた本丸(東西69m、南北69m)と二の丸(東西87m、南北58m)を囲むように侍屋敷、鉄砲屋敷を配置し、その東側に町屋を置き、また、要所の3か所に櫓を築き、それをまた堀で囲むという三重の堀を持つ構造でした。西側の防衛は筑後川を利用していたと考えられます。

1620年(元和6)、田中氏断絶とともに廃城となり、石垣・材木等は久留米篠山城の修理に使用され、いまは本丸の礎石が一つ残っているだけです。

城跡には、天満神社や城島小学校が建ち、付近には城内・鉄砲町などの地名があります。

1912(大正1)年まで、小学校の周囲に堀が残っていましたが、埋めて運動場を拡張したため、現在遺構は残っていません。

なお、天満神社境内に小一郎神社の小さい社があるのは昔、城島城の主将城島小一郎をまつったもので、伝説によれば、城島落城の際、16歳であった小一郎は城兵の身代わりとなり切腹したと伝えられ、毎年旧11月16日を祭礼日として祭典を行っています。

また、天満神社の二の鳥居は明神鳥居系の台輪鳥居(だいりんとりい)といわれるもので、柱には柳川藩の儒学者安藤省庵の1697年(元禄10)の銘文があり、神社創建当時のものと考えられ、城島町指定文化財です。

>>>>>>>>>> <<<<<<<<<<

城島天満宮鳥居

画像準備中です

城島町指定文化財第一号 平成9年10月1日指定

この鳥居は元禄10年(1697)時の大庄屋大石家から献納された明神鳥居系の台輪鳥居である。明神鳥居は両柱に掛けわたした笠木(上)島木(下)の左右の先端が上方に向かって反っている鳥居で、柱の上部に台輪がはめ込まれたのを台輪鳥居と呼んでいる。台輪は重い島木を支える石柱に衝撃を少なくさせるための工夫といわれる。

柱には、柳川藩の儒者安藤省庵の銘文があり、日本人の精神生活の原点を示されている思いがし、この鳥居の付加価値をより大きなものにしている。

home