城島城

城島城跡と歴史

所在地 三潴郡城島町大字城島字本丸

城島町教育委員会説明板(現地)城島城図

筑後川左岸の自然堤防上、
西牟田家周が1583年(天正11)に初めて築いた平城。

?1588年(天正14)
島津義久が筑前・立花城、岩屋城を攻撃するさい、6月、手始めにこの城を攻めたので、家周は肥前の竜造寺氏のもとに逃亡た。
*)島津軍は高良山に陣を構え、
筑紫晴門の鷹取城(鳥栖市山浦町)、筑紫広門の勝尾城(鳥栖市河内町)を攻略した後、
太宰府・観世音寺に本陣を移し、岩屋城を攻める。

1589年(天正15)秀吉の九州平定後、立花宗茂が領主になると家臣 薦野増時が入城。
立花氏は関が原の闘いで西軍に加わったので戦後改易された。

1601年(慶長6)田中吉政が筑後一国の領主となると、家臣・宮川讃岐が城主となり城郭を完成し、讃岐の死後は宮川十郎丸が城代となった。

築城時の城の縄張りなどは不明だが、田中吉政の頃には、城は平地より2m高く、面積約100a、湿地を天然の要害とした。

周囲に堀をめぐらせた本丸(東西69m、南北69m)と二の丸(東西87m、南北58m)を囲むように侍屋敷、鉄砲屋敷を配置し、
その東側に町屋を置き、また、要所の3か所に櫓を築き、それをまた堀で囲むという三重堀を持つ構造だった。
西側の防衛は筑後川を利用していたと考えられる。

1620年(元和6)、田中氏断絶とともに廃城となり、石垣・材木等は久留米篠山城の修理に使用されたため、
いまは本丸の礎石が一つ残っるだけ。

城跡には、天満神社や城島小学校が建ち、付近には城内・鉄砲町などの地名が残る。

1912(大正1)年まで、小学校の周囲に残っていた堀を埋めて運動場を拡張したので、遺構は残っていない。

天満神社境内にある「小一郎神社の小さい社」は昔、城島城の主将・城島小一郎をまつったもので、
伝説によれば、城島城が落城の際、16歳だった小一郎は、城兵の身代わりとなり切腹したと伝えられ、
毎年旧11月16日を祭礼日として祭典を行っている。

また、天満神社・二の鳥居は「明神鳥居系の台輪鳥居(だいりんとりい)」といわれるもので、柱には柳川藩の儒学者 安藤省庵の1697年(元禄10)の銘文があり、神社創建当時のものと考えられ、城島町指定文化財。

(現地の説明板を引用)

>>>>>>>>>> <<<<<<<<<<

城島天満宮


はじめ、一の鳥居から二の鳥居まで100mほど距離があります。
小さな橋を渡ると二の鳥居があります。
二ノ鳥居の柱にあるという銘文は右の柱に彫られているようだが、ほとんど読めず。

城島町指定文化財第一号 平成9年10月1日指定

この鳥居は元禄10年(1697)時の大庄屋大石家から献納された明神鳥居系の台輪鳥居である。
明神鳥居の特徴は、両柱に掛けわたした笠木(上)島木(下)の左右の先端が上方に向かって反っている。
また、柱の上部に台輪がはめ込まれたのを台輪鳥居と呼んでいるが、台輪は重い島木を支える石柱に衝撃を少なくさせるための工夫といわれている。
柱には、柳川藩の儒者 安藤省庵の銘文があり、日本人の精神生活の原点を示されている思いがし、
この鳥居の付加価値をより大きなものにしている。


城島小学校に隣接し、神社の裏手は運動場です。

戻る

home