ドイツ兵俘虜慰霊碑

帝国主義的な考え方(国力強化・植民地拡大)が世界的傾向だった時代。
1902年、日英同盟(ロシアの中国進出牽制が目的)を締結していた日本は、第一次大戦が始まると、同盟を口実として
1914年(大正3)8月23日ドイツに宣戦布告(中国、南洋諸島でドイツの持つ権益が狙い)した。連合国(日英)対同盟国(独・オーストリア)の戦いだった。

大正3年10月31日-11月7日、日本は中国青島のドイツ要塞を攻略。
10月6日、最初の俘虜55名は久留米梅林寺、日吉町大谷派教務所に収容、
11月、さらに433名が到着し篠山町香霞園と教務所、高良台演習廠舎に収容され、梅林寺の俘虜は香霞園に移管されたが、
戦争の長期化で民間施設の警備や経済上の問題があり
大正4年6月、国分に新収容所を建設し統合した。(熊本収容所の全員、福岡収容所の一部も収容し、総数1319名と全国一の最大収容所となる)
俘虜となった5000名近くを坂東・習志野・青野原・似島の収容所に分散収容。
「ドイツ兵俘虜」といっても、親善訪問で日本に来る途中、開戦に巻き込まれ、青島でドイツ軍に合流したオーストリア・ハンガリーの巡洋艦「カイゼリン・エリーザベト」号の乗組員も含まれるほか、現在のドイツ、オーストリア以外のポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ユーゴ、北イタリア出身者が含まれる。

久留米は、戦闘に携わった18師団司令部の所在地だが、敷地:29,000㎡ 収容人数:1319人(最大時)で、他の収容所に比べ、最も人数が多いのに久留米収容所が一番狭かった。

歴代所長

種村 弘道 中佐(大正3年10月6日-大正4年5月25日)  
大正4年4月7日、草野町発心公園で花見の写真。ドイツ語を話せた。
真崎 甚三郎 中佐(大正4年5月25日-大正5年11月15日)  
ドイツ駐在者。ドイツ人俘虜の葬儀で弔辞を読んだ。
林 銑十郎 中佐(大正3年10月6日-大正4年5月25日)  
ドイツ駐在者。ドイツ語堪能
高島 己作(大正7年7月24日-大正7年9月)  
詳細不明
渡辺 保治 大佐(大正7年9月7日-大正9年3月12日)  
詳細不明

大正3年(1914)10月6日開始、大正9年(1920)3月12日閉鎖された。

11名の死者が久留米山川陸軍墓地に埋葬されたが、大戦終結後の1920年1月16日、土葬されていたコッホとパウリ―以外の9名の遺骨は火葬されていてドイツ側委員に引渡された。

墓地の概観

案内表示ドイツ俘虜の碑
競輪場への途中、陸軍橋の手前、駐車場と池の傍にあります。
年月が経っているのに、周辺はきれいに手入れされていました。

正面左正面右

正面(左)・背面(右)

「SCHWERT ENTWUNDEN DURCH SCHICKSALS MACHT  GEFANGEN GEBUNDEN SANKT IHR ZUR NACHT」
(運命の力によって剣を奪われ、捕らえられ、拘束されて君らは夜の帳に沈んだ)

台座には
「ZUM GEDAECHTNNIS DEN KAMERADEN DIE FERN HEIMAT STARBEN」
(故郷遠く没した 戦友達を偲んで)

Koch(コッホ),Heinrich(?-1914): 海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。[鍛冶職人]。1914年9月28日ヴァルダーゼー高地で俘虜となったが、負傷していたため久留米衛戍病院に送られた。10月25日、重病になったコッホは、所長樫村弘道少佐、所員の山本茂中尉に「故国の母親によろしく伝えて欲しい」との遺言を残し同日、同病院で死亡。グラボウ(Grabow)中尉、ベスラー(Boe sler)少尉及び下士2名が病院に駆けつけた。
葬儀に際してはグラボウ中尉の別れの言葉、弔辞(樫村所長・通訳は山本中尉)、久留米市代表の弔辞、仏教の僧侶が線香を焚く。写真家達が葬儀の様子を撮影し、100人に及ぶ群衆が見つめていたという。ハンブルク出身。(久留米)

Emoan(エーモアン),Max(1887-1915): 第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。1914年12月14日、収容されていた熊本西光寺を脱柵した科で、憲兵留置所で重謹慎2日の処罰を受けた。1915年7月21日の晩に久留米で死亡、23日に久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)上部バイエルンのトロスベルク(Trossberg)出身。

Simon(ジーモン),Robert(?-1916): 第3海兵大隊第2中隊・伍長。1916年3月19日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)117頁には、ジーモンの葬儀の様子、写真4点が掲載されている。ザクセンのグリューン(Gru"n)出身。(熊本→久留米)

Boesler(ベスラー),Ernst(1880-1916): 第3海兵大隊第2中隊・後備陸軍歩兵少尉。1914年9月28日、浮山で日本軍に包囲され、退却を求めて協議を申し出るが武装解除され俘虜となる。グラーボウ(Grabow)中尉等60名が俘虜となった。10月9日、日本への俘虜第一陣として門司に到着し、久留米俘虜収容所に送られた。【『日獨戰史』 402頁等より】1916年4月18日、肺結核兼肋膜炎により久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)116頁には、ベスラー少尉を送る葬列、6点の写真が掲載されている。ドイッチュアイラウ(Deutscheylau)出身。

Sanz(ザンツ),Josef(?-1916): 巡洋艦皇后エリーザベト乗員(オランダ・ハンガリー)日本へ親善訪問で来る途中、開戦に巻き込まれ、ドイツ軍に合流した・2等水兵。1916年4月21日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)117頁には、ザンツの葬儀の様子や墓標を写した写真3点が掲載されている。ボヘミアのニームブルク(Niemburg)出身。(熊本→久留米)

Schlund(シュルント),Alfred(?-1918): 海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等機関兵曹。 1918年3月13日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)118頁には、シュルントの葬儀の様子を写した写真が掲載されている。ツヴィッカウ郡のシュタインプライス(Steinpleis)出身。(福岡→久留米)

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Pouly(パオリー)Karl(1886-1918)第3海兵大隊第2中隊・軍曹。1886年3月9日、商人の子としてザールブリュッケンに生まれた。1914年9月28日、浮山周辺で日本軍に包囲され、グラーボウ中尉等60名が俘虜となったが、その折りパオリー軍曹は、部下11名とともに逃れた。1918年3月26日久留米で死亡。ザールブリュッケン出身。(熊本→久留米)

Werner(ヴェルナー),Alfred(?-1918): 第3海兵大隊機関銃隊・2等焚火兵。1918年5月8日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)119頁には、ヴェルナーの葬儀の様子等の写真が掲載されている。
シュレージエンのローンシュトッホ(Rohnstoch)出身。(熊本→久留米)

Kettgen(ケットゲン),Johann(?-1919): 第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。1919年3月2日、久留米で死亡。
ラインラントのホムベルク(Homberg)出身。(熊本→久留米)

Po"nitz(ペーニッツ),Erich(?-1919): 第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1919年8月2日肺結核により久留米で死亡。西プロイセンのプロイスィッシュ=シュタルガルト(Proissisch-Stargard)出身。(熊本→久留米)

Bauer(バウアー),Josef(?-1919): 第3海兵大隊第6中隊・補充後備兵。(1919年11月7日久留米で死亡)
ドナウ河畔のヴェルト(W?rth)出身。(熊本→久留米)

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各兵士に関する項目、最後尾についての説明

5年余の収容期間に戦場での傷がもとで2名、病気などで9名、合わせて11名が亡くなった。これらの死者の追悼のため、俘虜達は帰国に際し、この慰霊塔を建立した。

碑の正面には収容期間を示す西暦と剣が、両側面には死者の姓が記されている。

背面にはドイツ語で「運命の力により剣を奪われ、捕らわれの人となり黄泉の国に去った汝ら」、台座には「故郷はるか遠く逝った同志たちの思い出のために」と鎮魂の詩が刻まれている。

俘虜は長い抑留生活の中でも、音楽会・作品展示会・スポーツ大会などを催し、市民との交流を深め、近代の久留米の芸術・文化や市民生活に大きな影響を与えた。

この俘虜収容所のオーケストラは、大正5年(1916年)2月25日にベートーベンの「第8交響曲」を演奏した。同6年3月4日の「第5」、同7年10月16日の「第1」同8年3月26日の「第7」も日本初演。(すべて4楽章通し)。

大正8年(1919)12月3日、久留米高女から招待され、ベートーベンの交響曲「第9」を演奏した。

またドイツの進んだ科学技術は後に久留米の基幹産業たるゴム産業の技術革新に大きな貢献をしている。久留米の歴史にドイツ兵俘虜は大きな足跡を残している。

(資料:現地説明版・日本経済新聞 2003年(平成15年)6月23日(月曜日)文化面)

ドイツ兵捕虜の妻は、青島から夫を追って久留米の八軒屋付近に居住したという。
たまたま青島に寄港していた他国船の乗組員も捕虜になっていたという。
また、北野天満宮(鷽替え)・善導寺境内・発心公園の桜、高良山(御井町広手・御手洗橋・高良大社正面階段・大社社頭)・筑後川(水浴)・神代橋・宮の陣(梅)・久留米高女(迎賓館敷地内)での演奏会で写された写真なども残っているらしい。

1914年(大正3)11月7日ドイツ軍の降伏で出た大量の捕虜を収容するために東京、名古屋、大阪、姫路、松山、丸亀、福岡、熊本に俘虜収容所が開設された。
久留米でも京町梅林寺(書院、旦過寮)・大谷派久留米教務所(日吉小学校運動場東部分)・篠山町の久留米城二の丸跡にあった料亭香霞園(当時休業状態)が増設され、後に高良台演習廠舎(藤光町)や国分18師団衛戍病院隣の収容所に移された。
(初代所長の種村弘道少佐の時から、ソーレ神父が週に1回収容所に通って俘虜たちの心を支えた)
1915年(大正4)6月、国分の衛戍病院新病舎跡(現久留米大学医療センター)に統合され、熊本の収容者全員と福岡収容所の収容者の一部を受け入れ、収容者1319名の全国一の人数を収容した。(資料:収容所に隣接していた白川公園)

外務省外交資料館の『俘虜名簿』では4715名:

この収容所から出された絵葉書:坂東コレクション蔵:久留米停車場通繁昌之景 久留米市今町廣重文会堂発行(久留米俘虜収容所、俘虜郵便の検閲印、大正5年=1916年12月4日の消印あり)・他に「近江瀬田の唐橋」、「明石人丸神社」の絵葉書もあり。

資料


高良山・御井町の旧家「御厨」からは多彩な人物が出ているが、その中の御厨豊という人は、第五高等学校に学び夏目漱石に教えを受け、師団で数学を教えていたが、ドイツ人捕虜が久留米に来たときに、五高で習い覚えたドイツ語で通訳をつとめたという。(御井町誌)


第一次大戦でドイツに対して宣戦布告をしたため、大正初めからドイツに留学していた於保乙彦(佐賀県多久市出身)は大正3年にドイツ軍の捕虜となったが、大正6年に帰国し、台北病院長や昭和2年台北帝国大学開校と共に医学部教授及び附属病院長として活躍された。


収容所がまだ存在している時期、1918年には太刀洗飛行場が完成し、次の戦争準備が進行しているのは、国や軍に先見の明があったと感心して良いのか?・・・


小郡の老松神社(人形注締めの取材に行き、境内に青島攻撃砲弾1個献納碑を発見)

家のアルバムにあったもので、右側に「大正12年日独戦争凱旋祝賀(2月)」と記されています。大正9年の戦争終結から3年後ですが、久留米では印象深い出来事だったために、このようなスタイルで撮影されたのかも知れません。

(大正12年頃の雰囲気を知る資料として)

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