ドイツ兵俘虜慰霊碑

第一次大戦に参加した日本は中国青島のドイツ要塞を攻略し、俘虜となった5000名近くが各地の収容所に分散収容された。「ドイツ兵俘虜」といっても親善訪問で日本に来る途中、開戦に巻き込まれ、青島でドイツ軍に合流したオーストリア・ハンガリーの巡洋艦「カイゼリン・エリーザベト」号の乗組員も含まれるほか、現在のドイツ、オーストリアの他、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ユーゴ、北イタリア出身者が含まれている。

戦闘に携わった18師団司令部もあったためか、久留米収容所はその中でも最も多く、大正3年(1914)10月6日開始、大正9年(1920)3月12日閉鎖された
11名の死者が久留米山川陸軍墓地に埋葬されたが、大戦終結後の1920年1月16日、火葬されていた9人の遺骨はドイツ側に引渡された。


競輪場への途中、陸軍橋の手前、駐車場と池の傍にあります。
年月が経っているのに、周辺はきれいに手入れされていました。

正面(左)・背面(右)

Koch(コッホ),Heinrich(?-1914): 海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。[鍛冶職人]。1914年9月28日ヴァルダーゼー高地で俘虜となったが、負傷していたため久留米衛戍病院に送られた。10月25日、重病に陥ったコッホは「故国の母親によろしく伝えて欲しい」との遺言を残し同日、同病院で死亡。ハンブルク出身。(久留米)

Emoan(エーモアン),Max(1887-1915): 第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。1914年12月14日、収容されていた熊本西光寺を脱柵した科で、憲兵留置所で重謹慎2日の処罰を受けた。1915年7月21日の晩に久留米で死亡、23日に久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)上部バイエルンのトロスベルク(Trossberg)出身。

Simon(ジーモン),Robert(?-1916): 第3海兵大隊第2中隊・伍長。1916年3月19日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)117頁には、ジーモンの葬儀の様子、写真4点が掲載されている。ザクセンのグリューン(Gru"n)出身。(熊本→久留米)

Boesler(ベスラー),Ernst(1880-1916): 第3海兵大隊第2中隊・後備陸軍歩兵少尉。1914年9月28日、浮山で日本軍に包囲され、退却を求めて協議を申し出るが武装解除され俘虜となる。グラーボウ(Grabow)中尉等60名が俘虜となった。10月9日、日本への俘虜第一陣として門司に到着し、久留米俘虜収容所に送られた。【『日獨戰史』 402頁等より】1916年4月18日、肺結核兼肋膜炎により久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)116頁には、ベスラー少尉を送る葬列、6点の写真が掲載されている。ドイッチュアイラウ(Deutscheylau)出身。

Sanz(ザンツ),Josef(?-1916): 巡洋艦皇后エリーザベト乗員(オランダ・ハンガリー)日本へ親善訪問で来る途中、開戦に巻き込まれ、ドイツ軍に合流した・2等水兵。1916年4月21日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)117頁には、ザンツの葬儀の様子や墓標を写した写真3点が掲載されている。ボヘミアのニームブルク(Niemburg)出身。(熊本→久留米)

Schlund(シュルント),Alfred(?-1918): 海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等機関兵曹。 1918年3月13日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)118頁には、シュルントの葬儀の様子を写した写真が掲載されている。ツヴィッカウ郡のシュタインプライス(Steinpleis)出身。(福岡→久留米)

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Pouly(パオリー)Karl(1886-1918)第3海兵大隊第2中隊・軍曹。1886年3月9日、商人の子としてザールブリュッケンに生まれた。1914年9月28日、浮山周辺で日本軍に包囲され、グラーボウ中尉等60名が俘虜となったが、その折りパオリー軍曹は、部下11名とともに逃れた。1918年3月26日久留米で死亡。ザールブリュッケン出身。(熊本→久留米)

Werner(ヴェルナー),Alfred(?-1918): 第3海兵大隊機関銃隊・2等焚火兵。1918年5月8日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)119頁には、ヴェルナーの葬儀の様子等の写真が掲載されている。
シュレージエンのローンシュトッホ(Rohnstoch)出身。(熊本→久留米)

Kettgen(ケットゲン),Johann(?-1919): 第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。1919年3月2日、久留米で死亡。
ラインラントのホムベルク(Homberg)出身。(熊本→久留米)

Po"nitz(ペーニッツ),Erich(?-1919): 第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1919年8月2日肺結核により久留米で死亡。西プロイセンのプロイスィッシュ=シュタルガルト(Proissisch-Stargard)出身。(熊本→久留米)

Bauer(バウアー),Josef(?-1919): 第3海兵大隊第6中隊・補充後備兵。(1919年11月7日久留米で死亡)
ドナウ河畔のヴェルト(W?rth)出身。(熊本→久留米)

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各兵士に関する項目最後の表示:

第一次世界大戦に参戦した我が国は、中国青島のドイツの要塞を攻め落とし、多数のドイツ兵を俘虜としました。彼等を収容するため、大正3年(1914)10月から同9年(1920)3月まで、久留米に俘虜収容所が置かれました。多い時には1319名を収容し、全国12ヵ所の収容所で最大でした。

5年余の収容期間に戦場での傷がもとで2名、病気などで9名、合わせて11名が亡くなりました。これらの死者の追悼のため、俘虜達は帰国に際し、この慰霊塔を建立しました。

碑の正面には収容期間を示す西暦と剣が、両側面には死者の姓が記されます。

背面にはドイツ語で「運命の力により剣を奪われ、捕らわれの人となり黄泉の国に去った汝ら」、台座には「故郷はるか遠く逝った同志たちの思い出のために」と鎮魂の詩が刻まれています。

俘虜は長い抑留生活の中でも、音楽会・作品展示会・スポーツ大会などを催し、市民との交流を深め、近代の久留米の芸術・文化や市民生活に大きな影響を与えています。

この俘虜収容所のオーケストラは、大正5年(1916年)2月25日にベートーベンの「第8交響曲」を演奏した。同6年3月4日の「第5」、同7年10月16日の「第1」同8年3月26日の「第7」も日本初演。(すべて4楽章通し)。

大正8年(1919)12月3日、久留米高女からの招待で、ベートーベンの交響曲「第9」を演奏しています。

またドイツの進んだ科学技術は後に久留米の基幹産業たるゴム産業の技術革新に大きな貢献をしています。久留米の歴史にドイツ兵俘虜は大きな足跡を残すものです。

(資料:現地説明版・日本経済新聞 2003年(平成15年)6月23日(月曜日)文化面)

京町の梅林寺・日吉町の大谷派久留米教務所・11月7日ドイツ軍の降伏で出た大量の捕虜を収容するために東京、名古屋、大阪、姫路、松山、丸亀、福岡、熊本に俘虜収容所が開設された。久留米でも篠山町の久留米城二の丸跡にあった料亭香霞園(当時休業状態)が増設され、後に高良台演習廠舎や国分18師団衛戍病院隣の収容所に移されていたようです。

外務省外交資料館の『俘虜名簿』では4715名:

資料チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会のサイト(H17・3 高知大 瀬戸先生の史料)

荷物整理中に出てきたアルバムにあったもので、右側に「大正12年日独戦争凱旋祝賀(2月)」と記されています。大正9年の戦争終結から時間が経過していますが、久留米の人々にとってよほど印象深い出来事だったために、このようなスタイルで撮影されていたのかも知れません。

(大正12年頃の雰囲気を知る資料として)

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