俘虜たちと久留米の産業

第一次大戦時、日本は連合国側としてドイツに宣戦布告、ドイツ軍陣地青島を攻略。(青島の地図久留米収容所:坂東コレクションへlink)
青島の湖南路(Hu nan lu)《独時代は→Irene Str.イレーネ街》を、1898年~1949年の間、久留米町と名付けていました。 

この戦闘で俘虜(厳密にはハンガリー・オーストリアなど数カ国が含まれる)になった人々の中には様々な技術者がいて、ドイツを中心とした優れた技術を取り入れる機会になりました。
注)(熊本→久留米)は、熊本の収容所から久留米収容所へ移動したことを示します。
(福岡→久留米)も同様ですが(久留米)とあるのは収容所を移動していません。

膠州湾は現在の中国山東省に位置し、膠州湾入口の半島に青島要塞がありました。

本村治兵衛工場(通町)に麺麭及び洋菓子製造:の労役、(1918年10月~)
Bonk(ボンク),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。[パン職人]。大戦終結して解放後は、東京の日清製粉に勤めた。ハレ地区のアイスレーベン(Eisleben)出身。(福岡→久留米)
本村治兵衛工場(通町)に麺麭及び洋菓子製造:の労役、(1918年10月~)
Wegener(ヴェーゲナー),Joseph(1892-1963):第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。ヴェストファーレンのポルズム(Polsum)出身。(熊本→久留米)
つちや足袋合名会社(「株)ムーンスター」)に木綿漂白の労役(1918年 10月~)
Tiesel(ティーゼル),Kurt(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ゲーラ出身。(久留米)
つちや足袋合名会社に織物機械据付及び修繕の労役(1918年 10月~)
Ulbrich(ウルブルヒ),Ernst(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[電気工]。ヴェストファーレンのグローナウ出身。(福岡→久留米)
大戦終結後(「合)つちやたび」→「株)日華ゴム」→「株)月星ゴム」)に入社、50年余勤務しゴム産業の発展に貢献した。
Wedekind(ヴェーデキント),Heinrich(1889-1971):海軍砲兵中隊・2等機関兵曹。〔ビスマルク砲台〕。工業学校を出てドイツ海軍の機械整備係りとして軍艦に乗り込む。第一次大戦前に日本に来たことがある。後年社内では、上田金蔵の日本人名を用いた。ハノーファー出身。(熊本→久留米)
日本足袋株式会社(現「ブリヂストン」の前身)に、織物機械修理の労役 (1918年 10月~)
Mo"ller(メラー),Wilhelm(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。メービスブルク(Mo"bisburg)出身。(福岡→久留米)
日本足袋株式会社に、木綿織物の労役(1918年 10月~)
Z?ffel(ツェッフェル),Werner(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。
ザクセンのクリミチャウ(Crimmitschau)出身。(福岡→久留米)
大戦終結後、日本足袋(株)に入社
Selbach(ゼールバッハ),Christian(?-?):海軍砲兵中隊・2等水雷機関兵曹。ケルン=ライン管区のヘスペルト/エッケンハーゲン(Hespert/Eckenhagen)出身。(熊本→久留米)
オーバーシューズ調製の技術者。当時は「日本ゴム」と「日華ゴム」が競い合っていた。彼は地下足袋の底を二重ゴムにする技術を考案し、これで日本ゴムは業績を伸ばした。1932年10月、日本足袋(株)を退社。
Hirschberger(ヒルシュベルガー),Paul(1888-1964):第3海兵大隊第1中隊・軍曹。日本語が上手だった。大戦終結後「大阪角一護謨」に勤めたが、1923年にゼールバッハ(Selbach)が帰国すると、後任として「株)日本ゴム」に移った。ハノーファー州のミュンデン(Mu"nden)出身。(久留米)

*)1922年(大11)8月12日日本足袋(株)が貼付地下足袋の試作第一号を完成した。
これは、石橋徳次郎が発明・開発し、福岡県久留米市の会社「日本足袋」で製造、子会社「アサヒ地下足袋」で販売した。
特に、近隣の三池炭坑の炭坑夫に人気を博し、全国的に普及した。
「日本足袋」はゴム底靴製造販売にも進出、アサヒコーポレーションとなる。
また、石橋正二郎(徳次郎の弟)が、そのノウハウをタイヤ製造に活かして(株)ブリヂストンを創業した。
地下足袋は、軍靴に比べ、軽くて音を立てにくいので、当時の軍でも多用された。

   参考:(つちやたび、志まや足袋、会社の発展にともなう名称の推移)    ○つちやたび     →(株)日華護謨工業→(株)日華ゴム→(株)月星ゴム→株)月星化成→株)ムーンスター    ○志まや足袋     →アサヒ足袋→(株)日本足袋→(株)日本ゴム→(株)アサヒコーポレーション          (株)日本足袋→(株)ブリヂストンタイヤ
日本製粉株式会社久留米支店で製粉の労役(1918年 9月16日~)
Mu"nch(ミュンヒ),Wilhelm J.(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・軍曹。ドレスデン出身。(1356:福岡→久留米)
日本製粉株式会社久留米支店に、蒸気機関火夫の労役(1919年6月~)
Wingert(ヴィンゲルト),Walter(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。久留米時代の1917年1月 28日、アンドレーアをカロルチャク等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。シュテッティン出身。(熊本→久留米)
澤野鉄工場で鋳型の労役(1918年10月~)に従事
Will(ヴィル),Heinrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[鋳型工]。エーリングハウゼン(Ehringhausen)出身。(1679:福岡→久留米)

労役:労働時間1日8時間、賃金は月24円(内4円は国庫納入)

佐賀県鳥栖町の中村石鹸製造工場に就労し、収容所から自転車で通勤(1919年4月~)
Klumpp(クルムプ),Adolf(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。ヴェストファーレンのリップシュタット(Lippstadt)出身。(熊本→久留米)
九州・若松の帝国鋳物株式会社に技師として就職(1919年11月25日)月給は350円
Stopsack(シュトップザック),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備2等水兵。メークデシュプルング(Ma"gdesprung)出身。(熊本→久留米)
1908年~1914年11月まで青島測候所長を務め、徳華高等学堂講師も兼任
ブルーノ・マイアーマン(Prof.Dr.Bruno Meyermann;1876-1963):(熊本→久留米→板東)熊本時代の1914年12月26日、中央気象台長理学博士中村精男と熊本測候所長栗山茂太郎が面会に訪れた。1915年3月、天津から妻マティルデと子供二人の入国申請があり許可された。久留米時代、妻と子供は国分村浦川原の森新別荘に住んだ。
解放後の1920年~九州帝国大学や山口高等学校でドイツ語を教え、九大で農業発達史の講義を持った
アレクサンダー・シュパン(Dr.Alexander Spann:1890-?):ベルリンとハレの大学で農芸化学を学び、1912年10月、1年志願兵として青島に赴き、2年後に青島の徳華高等学堂の農林学科助手。日本語は収容所時代に学ぶ。夏目漱石『坊ちゃん』、武者小路実篤『その妹』、菊池寛『恩讐の彼方に』等をドイツ語に翻訳
銀座にレストラン「ローマイヤー」を開き、「ロースハム」という言葉の考案者と言われる。
Lohmeyer(ローマイヤー),August(1892-1962):海軍膠州砲兵隊・1等水兵。応召前はチンタオで食肉加工職マイスターとして働いていた。大戦終結して解放後、帝国ホテルに採用されたが、一年後に出資者を得、1921年(大正10年)山手線大崎駅南に「ローマイヤー・ソーセージ製造所」を創設し成功。日本で初めてロースハムを作り出した(ロースハムという言葉の考案者)。銀座レストラン「ローマイヤー」を開く。日本人女性と結婚、長男がレストランを継ぎ、次男はソーセージ職人となり製造会社を継いだ。横浜の外人墓地に墓碑がある。ブレーメン出身。(熊本→久留米)
ローマイヤ―のサイトに、彼が第一次大戦中はUボートで転戦していたことや、戦後、ドイツに帰国した時の話などが紹介されています。
ドイツの医薬・工業薬品会社E.Merckメルク社、社長の息子
Merck(メルク),Dr.Karl(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・予備陸軍少尉。熊本時代の1914年12月、田中秀介(薬学博士)が2回、面会に訪れた(熊本収容所で最初の俘虜面会)。また、1915年2月24日、大賀寿吉が面会に訪れた。久留米時代の1917年8月、ニューヨーク市のメルク商会から、メルク宛に200円の金券交付依頼があったり、彼には頻繁に送金があった。大正8年頃、名古屋の落合化学で落合兵之助と金液の共同研究をしていた大学時代からの友人エンゲルホルン(Engelhorn)の推薦で、久留米収容所から招かれた。帰国後、メルク社の専門技術者、ペテルセンを派遣した。ダルムシュタット出身。(熊本→久留米)

お奨めサイト:

チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会 ・香川近代史研究会 丸亀ドイツ兵俘虜研究 ・坂東コレクション・習志野俘虜収容所

お断り:参考資料というよりも、久留米関係部分を抜粋させていただいています。ぜひ上記のサイトをご覧下さい。

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