五穀神社

五穀神社由緒

昭和62年12月吉日 (現地説明板より)

拝殿

有形文化財(建造物)

五穀神社の石橋

久留米市通外町58-1
平成12年1月24日市指定

石造反橋

五穀神社の池にかけられた石造反橋。

この神社は藩営に近いもので、神社神殿を大庄屋中、拝殿は総郡中から寄進を命じている。この石橋も文化3年(1806)に総郡中から寄進。

長野石(八女市長野で切り出される阿蘇凝灰岩)を使用、同所の石工たちが築いた、筑後地方の石橋架橋技術を示す貴重なもの。

五穀神社は最盛期、神殿と神宮寺円通寺ほか阿弥陀堂・地蔵堂・観音堂などの諸堂があった。明治2年(1869)に神仏分離により円通寺が廃寺になり、五穀神社のみになっており、盛時を復元するのに貴重な建造物である。

現地説明板 久留米市教育委員会

近くに田中久重翁の生家があり、幼少の久重の遊び場だったという。
田中久重生誕地碑(通町十丁目)

田中久重像 作者は豐田勝秋(昭和32年)

豊田勝秋氏の作で「昭和32年初夏勝秋謹」の銘。

昭和32年10月14日に除幕。墓は東京青山墓地。

この像の隣には井上伝の胸像もあります。

田中久重(儀右衛門)と八女福島灯籠人形

この五穀神社がきっかけとなり田中久重と福島灯籠人形の縁が結ばれています。

安永8年(1779)
五穀神社で8月15.16日、燈籠人形の初興行(からくり人形5組)での非常な賑わいが殿様よりゆきの耳に達し、五穀神社の天満宮勧請遷座祭当日(8月25日)に陳列興行するように仰せられた。
(藩主以下の総見。屋台やろうそくなどの出費は藩の負担・1人5文ずつの参観料を取ることを許された上、銀2枚を藩から拝領した。)
文政2年(1819)
田中儀右衛門(21歳)五穀神社の祭礼でからくり人形(身長70cmの娘姿)を上演。水カラクリなどの新しい仕掛けを披露、評判になる。
大阪・江戸などでも興行し、大変な評判を得て「カラクリ儀右衛門」と呼ばれるようになる。
後、大阪・京都に移り天文学や蘭学を学ぶ。
天保3年(1832)
田中儀右衛門(34歳)からくり人形芝居を久留米五穀神社で興行。 (また、福島八幡宮氏子町の依頼で、からくり人形2体を製作:(牽牛と織姫))

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