福岡護国神社でみつけた書

拝啓
益々御清健、このたびは浦波号にて南洋を御視察相成候よし奉多謝。
世上、机上の空論を以て国政を弄ぶの際、躬行以て自説に忠ならむとの真摯なる御心掛けには敬意を表候。
但し海に山本在り以って御安心などは迷惑千万にて小生は単に小敵たりとも侮らず大敵たりとも懼れず
聖論と奉じて日夜孜々と実力の練成に精進致し居るに過ぎず、
恃む處惨として驕らざる十萬将兵の誠忠のみに有之候、
併し日米開戦に至らば我がめざすところ素よりグアム比律賓(フィリピン)にあらず、
将又布哇(ハワイ)桑港(サンフランシスコ)にあらず、
実に華府(ワシントン)街頭白亜館(ホワイトハウス)との盟ならざるべからず
尚〔ここの一字だけ不明〕方政家果して此本腰の覚悟と自信ありや
祈御自重 真々不具
一月七日 山本五十六
昭和16年1月7日に書かれた南洋開発事業にあたっていた在京実業人に宛てた手紙です
(同年12月8日が真珠湾攻撃)
郷土研究会の方々のご助力をいただきました。
惨として:いたましい、みじめな、むごたらしい
躬行:みずから実行すること
孜々:熱心に努め励むさま
真々不具:(自分の真意を述べつくすことができない)といった意味で手紙の結びの言葉
毎年、終戦記念日が近くなると、戦争関係の書物が発刊され、山本五十六氏に関した書物も書店に並んでいます。彼はポーカーが得意だったアメリカ通の将軍ですが、戦前は開戦反対、阻止の立場で運動されていたようですが海軍の高官だったので、真意を表明することは出きなかったのでしょう。
***戦死した叔父について***
叔父は浮羽工業高校から大阪の工業学校(大阪工大の前身)へ進学、終戦の前年、教職を辞して、志願して軍隊に入り、気象予報官となり、フィリピン、クラーク飛行場の守備隊に配属され、数ヶ月間、食料物資等の補給困難な中、圧倒的なアメリカ軍の攻撃で所属部隊は全滅、叔父の正確な命日も不明。享年24歳。
(両親と幼くして死別した祖父は、自身の健康面に不安があり、4人の兄弟姉妹(女・男・女・男)長男であった叔父に、残った家族の面倒をみるために、収入の道を早く確保できる工業高校への進学をすすめたのです。)ギター演奏を好んでいた叔父は自分の希望を抑えて浮羽工業の近くで下宿生活を送り、(この頃友人と満州ヘ渡ることを考えていたようですが親の反対で中止しています)大阪の工業学校で勉学を続けた後、鹿児島県内のある工業高校へ教師となって赴任し数年を過ごしていたが、戦争末期には、「志願しなければ召集されて危険な前線に派遣される」といううわさもあったためか、職を辞して軍隊へ入り、気象予報官の訓練を受けた後、部隊に配属されました。戦地へ出発前、一時帰宅した叔父は既に敗戦を予感していた様子で、戦争について何か語り残した様子はありません。この後、父が用意した刀も家に残し、出発前に鹿児島の基地で会う最後の機会にも面会に行けず、残念だったと母達からも聞いていました。
戦後復興期には工業関係の技術や人材の需要は大きかったので、生き残って力を出し切れずに亡くなったのだと考えると非常に残念です。
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叔母の付添で式典に参加しましたが、戦没者の多くは当時20代の未婚者だったので、現在では、その親兄弟の方たちの高齢化で参加者が減少する一方、甥姪にあたる人の参加が増えていると知りました。
これ以上、個人的なことをサイトに上げるつもりはないのですが、母の生前に聴いていた叔父の経歴等を整理し、当時の若者がどのような生活をしていたのか、何を感じ、考えながら兵隊となって死んでいったのか、機会を見つけて辿らなければと思います。
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