岩屋城跡

岩屋山:四王子山の中腹(高さ281m)

天文年間(1532年~1555年)、
豊満城の支城として豊後大友氏の武将・高橋鑑種によって築かれた。
永禄12年(1569年)、
毛利に通じた鑑種が大友宗麟に謀反して城を追われた後、
高橋鎮理(後の高橋紹雲)が城主となった。

天正12年(1585) 紹運は、高良山から岩屋城に入る。
天正14年(1586)紹雲は、北上してきた島津軍5万を迎え撃ち、激戦十余日、
秀吉の援軍到着を待たずに玉砕し、落城した。

兵力:
岩屋城(高橋紹運39歳 700人)
宝満城(次男:統増15歳、紹運の妻や女・子供1300人)
立花城(長男:統虎[立花宗茂20歳]3000人)合計5000弱。

各砦(約10か所)には鉄砲や弾薬を配置、大石、大木を用意していた。
地形を利用して土塁を築き、逆茂木、杭を巡らせ敵方の攻撃に備えた。


現在、太宰府から「県民の森」への林道は内野口-中ノ丸付近を通っているようです。


島津の岩屋城攻め

「九州戦国合戦記」著者:吉永正春より

天正14年(1586)6月、島津軍が薩摩・大隅2万の軍勢は大友攻略のために肥後口から北上した。
島津忠長、伊集院忠棟、野村忠敦らが率いる薩摩・大隈の軍勢2万が筑後、筑前をめざして出発。
途中、筑前・筑後・肥前・肥後・豊前の配下諸軍を加え、総勢5万余の軍勢となった。
   島津軍に加わった国人(国衆。地方豪族)
     肥後国衆・・・宇土、詫間、赤星、城、有働、合志、山鹿、隈部氏等
     筑後国衆・・・三池、蒲池、黒木、門註所、草野、星野氏等
     肥前国衆・・・龍造寺、鍋島、有馬、神代、松浦、波多氏等
     筑前国衆・・・秋月、原田、千手氏等
     豊前国衆・・・城井、長野、高橋元種氏等島津軍勢の兵力5万余
7月12日-13日
島津方の軍勢は、観世音寺・横岳・坂本・国分・水城の周辺部落に布陣 前線基地を置いた観世音寺は岩屋城まで約1,000mの距離にある
14日から岩屋城への総攻撃が始まった。夜10時迄
15日は午前10時から夜12時迄
16日島津軍が水の手を絶つ (里人は、島津勢に水場を教えた老婆を石で埋め殺したという)
26日未明、外郭を突破して二の丸、三の丸へ攻め登られる。
屋山城代は巨岩、大木を落とさせ、島津勢は死傷者多数となる
再度、開城を勧めたが紹運は使者を追い返した
27日午前6時、最後の総攻撃
午後1時頃、大手門の一部が破られ、福田民部少補以下、全員戦死
本丸登り口を守る萩尾麟可・大学親子ら百余人が散華した。
「紹運 雄略 絶倫 兵ヲアケテ撃出シ薩軍破ルコト数回殺傷甚多シ」(「西藩野史」)」
紹運は敵17人を斬ったと記されている。
高楼に登ると腹を切って果てた。残った50余人も割腹・刺し違えて最後を遂げた
辞世の歌「かばねをば岩屋の苔に埋てぞ雲井の空に名をとどむべき」(「紹運記」)
「紹運平生情け深かりし故且は其忠義に感化せし故一人も節義をうしなはざるなるべし」(「筑前国続風土記」)
薩軍の死傷者は4500と記している(「筑前国続風土記」)
島津は多大な犠牲を出して岩屋を落城させ、宝満城を開城、立花城に迫ったが
8月24日、毛利勢が立花救援のために豊前に上陸してきたので、これを知った島津の諸軍は立花攻めを放棄して、一斉に撤退していった。

林道から本丸への登り口
四王寺県民の森への途中 道を隔てて山手が本丸(甲丸)跡。


岩屋城本丸(甲丸)跡(紹運は旗本の兵150人を率いて指揮を執った)
虚空蔵台と呼ばれる本丸周辺10か所に
屋山中務少補以下の百余人をはじめ家臣達が配置された。
家臣の子孫によって建立された「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑。 本丸跡から天満宮方面
本丸跡から天満宮、九州国立博物館を見る。一段下の平地には櫓か砦?
岩屋山の頂
中央、小高い部分が岩屋山頂点

岩屋城二の丸へ

林道から本丸側と反対、南(谷側)へ少し下ると、二の丸跡、三の丸跡、と思われる場所へ
岩屋城胴塚
二の丸跡:紹運の墓(胴塚)と、玉砕した家来衆の碑があります。(中央奥の塀に囲まれた部分)
その先、下方奥には堀切が見えます(下)

岩屋城堀切
島津忠長は、高橋紹運の器量を惜しんで3回も降伏勧告を行うが、
「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが
私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である。」
として断ったとされ、味方だけでなく敵からも賞賛を受けたと言う。

6月下旬、筑後・久留米の高良山に本陣を置いた。この頃、軍勢は約5万
7月6日、鳥栖・勝尾城の筑紫広門(3千)を攻撃。7月10日に落城。
7月12日、島津軍は進んで二日市や太宰府等に陣を、本陣を般若寺付近に置いた。
岩屋城(四王子山の中腹にあり高さ281m)を包囲。
島津軍は主に前線基地(観世音寺)の辺りから3手に分かれて攻め上った。
岩屋城で紹運と将兵(約763名「九州軍記」・「陰徳太平記」による」)全員玉砕した。

激戦の後、忠長は般若台で首実検をした。

岩屋城首塚

首塚(市指定史跡 高橋紹運首塚伝承地) 幅2m 奥行4m 高さ1m50㎝ 程度

所在地 筑紫野市大字二日市271-1
35号線西鉄二日駅-君畑の間(京町信号から80m位東(北2丁目)の急坂を登る

この本陣に近い般若台で、高橋紹運の首実検をして埋めたと筑前国續風土記に記されている。

高橋 紹運(辞世の歌) 「流れての末の世遠く埋れぬ 名をや岩屋の苔の下水」 (紹運記)

指定年月日 昭和59年11月1日
(現地説明板:筑紫野市教育委員会)

首実検の後、法要が行われたときの偈に
「一将功ナリテ九州二冠タリ、戦場ノ血ハ染川二入リテ流ル、人ヲ殺ス刀ハ是レ人ヲ活ス剣、月白ク風高シ岩屋ノ秋」

資料:太宰府の歴史6(古都太宰府を守る会編)

島津軍は、岩屋城攻めの被害が甚大(死傷者3000)だったので、西下して来る秀吉軍に備えて、大友攻めを諦め、撤退したため、島津氏の九州制覇は実現されなかった。
その後、岩屋城は立花宗茂によって島津氏から奪いかえされ、天正15年(1587年)に破却された。

岩屋城守備の兵数については、763人(「九州軍記」・「陰徳太平記」)・747人(「紹運記」)・侍六百余人(「筑前国続風土記」)
太宰府市の西正寺には高橋紹運はじめ763名の英霊が祀られている。柳川の天叟寺でも岩屋城戦没者の慰霊供養が続けられ、
毎年7月27日の落城日には、太宰府・西正寺(浄土真宗本願寺派)と柳川・天叟寺で法要が行われている。

太宰府西正寺(浄土真宗本願寺派)
門前左に「立花紹運公 勇士 菩提寺」の石柱

*)参考にしたもの
「戦国挽歌高橋紹運」西津弘美著、叢文社
「宝満山歴史散歩」森弘子著、葦書房
「福岡古城探訪」廣崎篤夫著、海鳥社

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