鬼夜(オニヨ)

正式には「県社玉垂神社追儺祭」

追儺の意義

古へ十二月晦日、宮中において行はれたる行事。
年中の疫鬼を駆逐する儀にして、もと陰陽道より起る。「オヤラヒ」また「オニヤラヒ」とも云ふ
諸国の神社にてもこの旧儀を伝ふる所あり、大宰府神社、住吉神社等の追儺祭の如き、これなり。
奈良春日神社にては、当夜、境内九百触の春日燈籠に悉く点火して、追儺祭を行ふ。頗る美観とせらる。

民間にてはこの夜、儺豆を打ちて疫鬼をはらふ。立春前一日を以ってこれを行ふは節分の儀の混ぜるなり。

文武天皇、慶雲三年、諸国、疫病流行して、百姓死する者多きにより、この年十二月、始めて、土手を作りて大儺せしこと日本書紀に見えたるを我が国におけるこの儀の始めとなす。後、恒例となりて歴代この儀式を行ふ。

この儀式次第、具に延喜式、内裏式、江家次第等に見ゆ。大舎人方相氏を勤め、黄金四目の仮面を被り、玄衣・朱裳を著け、左手に戈を持ち、右手に盾を執る。(人偏に辰)子(わらは)八人これに従ふ。子には、官奴等を取り、紺の布衣を著く。十二月晦日夜戌刻、官人、追儺の舎人等を率ゐて承明門外に候し、中務省の処分を待ち、宣陽門・承明門・陽明門・玄輝門の四門に配す。亥一刻、舎人、門をたゝきて儺人(なやらふひと)等を率ゐて参入、また某官親王門に候とすと奏す。乃ち、方相氏を首ちして、親王以下、随ひ入りて中庭に列立す。次に、陰陽師、版に著きて祭文を読む。

終りて、方相氏、まづ、儺声をなし、戈を以って盾を撃つこと三遍、王卿以下相承知し、校弓・葦箭を以って四方を射、桃の枝執りて、疫鬼を逐ひ、各々四門を出でゝ宮城門外に至る。その後、京職、鼓譟し、逐ひて郭外に至りて已む。この夜、また振鼓(ふりつゝみ)を禁中に振る。

追儺の儀、武家時代に入るに及びて廃絶し、後遂に行はれざるに至る。(神祇辞典)以上の儀式は宮廷を離れたが、今日全国各地の神社等に残り、其の儀式の模様も地方地方の郷土色を充分に彩るまでに変るに到ったが、難鬼を追ふ(公事根源新釈に「追儺」の儺は難なり。大寒の陰陽災難をなし、寓(宀でなくて广だが、同字)鬼これによりて人をなやますによりて、この難鬼を追ひ払ふなり。とある。)といふ所の中心目的の形式は何処の追儺祭を見ても失はれてゐない。

筑後地方に見る追儺祭の雄なるものは、三潴郡大善寺村県社 玉垂神社のそれと、八女郡羽犬塚町郷社熊野神社のそれである。

(玉垂神社鬼夜縁起)

「薬師寺旧記」に、仁徳天皇五十四年肥前の国桃桜(ゆすら)沈輪発起し異国へ内通し、悪徒を集め諸所乱妨の旨、百姓等及濫訴依之葦連(隣村三潴村塚崎の薬師寺姓の祖といふ)同帝五十五年十二年随勅命藤大臣(武内宿禰のこと)難波高津宮を出て、同年同月廿四日筑後塚崎葦連館へ御下着在す。(中略)大臣秘計をめぐらし、同帝五十六年正月七日類賊不遺退治し給ふ。夜に入りて沈輪行衛しれず、大臣四方に命じ大池を囲み、棒を以て水中を探り、沈輪逃るゝ処なく棒を奪取り、葦連目当打て懸る、用意の刃を抜て沈輪が首を討ち落し給ふ。其の首虚空に舞ひ上る。大臣八目矢を以て射落し、茅を集め焼き給ふ。是れ鬼夜の始と云ふ。

又一説に、玉垂宮大善寺社殿の成りし翌年、即ち白鳳三年三月七日子の上刻、空中に声あり曰く「我今鬼神となり自由自在の身、我に逆はんとすれば目前可滅、安泰如何成密法やありて我に逆ふや」と社堂振動する事百千萬の雷の今や落る如し、安泰・久運、近民に命し松明を照らし棒を持たせ、久運は太刀を帯し弓を以て天地四方を射払ひ、安泰一人桃桜沈輪死霊也秘密仏法を読修す、依之自然に悪魔去り、安泰猶心ならずや毎年同日天下国家社内安全祈、且鬼神を祭り鬼会祈祷と称せし、云々。

行事次第

大松明作り

正月七日の月落ちた後に行われる鬼会は古来の大秘事として神職は勿論、村人等一切口外を禁ぜられ、維新前までは外来の養子などには血判の誓をして、この秘密を守らせたもので、今でも相変わらず氏子入の式をおこない、祈誓文を神前に奉っている。

鬼会は六本の大松明が主になるが、氏子中に祖先伝来の株を持つ六つの家があって、その家からそれぞれ一本の松明を出すので、火口の径四尺余り長さ八尺にもなり、千斤内外もあろうかと思われる大松明である。

作り方は、神社境内に生えた径五六寸もある大孟宗竹三本を中心にして、一握り大の竹を無数に束ね、火口は杉の枯葉を含ませて大きくし、尾に近づくにつれて次第に細く作られる。これをくくる縄の帯数は、その年の日数にあわせ、結び方には一定のやり方がある。大松明は受持の若者の手で作られ、当日、神社横手奥の小路、西の小路に火口を空に突立ててある。

汐井口開けの行事

当夜、大善寺、三潴、犬塚、各村の血気盛りの若衆が持場持場に集まり、みな裸一貫の素裸で、手拭を鉢巻に草鞋かけで手に手に小松明を持って駆け集まるが、中には祈願成就の御礼にと、一里も二里も遠方から、風凍る霜夜を素裸で駆けつける者もいる。若い衆は当日、斎戒沐浴をするが、浴場には一切婦人を近づけない。こうして九時頃までに若衆の集合が終わる。

点火の手松明をふりかざし「ヨッショ、ヨッショ」の掛け声も勇ましく、各大松明の下にもみあう。其集団中には大の印を染抜いた黒頭巾に黒法被を着た「棒頭」という人が、それぞれ手頃の樫棒を携え、その仲間で取締の役に当り、今か今かと時刻になるのを待つ。十一時頃、神社の太鼓が鳴り響くのを合図に汐井口が開けば、二人の道開きが先頭に立ち、手松明を振りかざして神社前から本門を下って進むと、引続いて汐井田子をかついだ者、かつがぬ者、どれも裸姿の若者約二十一名の一列が従う。その後から同じ扮装の幼い男児を肩にした裸の御供達が群がって続く。(幼児を汐井汲に連れると健康に成長すると信ぜられているから)このようにして神前を流れる霰川の汐井場に行って汐井を汲み、来た道を神前に引き揚げると汐井口開けの行事が終る。

霰川の水垢離

一方、待構えていた若者は、この太鼓の合図を聴くと「それ始ったぞ」と各々声を上げながら、ひしめいて、汐井口開けの式が終るがはやいか、一番松明から六番迄の若者達は松明片手に列を作って霰川に躍り込み、凍る許りの寒水に沐浴して身を清め、またも「ヨッショヨッショ」の掛け声高く、水門より神社に参拝しては引返し、引返しては又参拝することを三四回繰り返す。

この若衆は数千名にものぼり、神社と汐井場との間は一大楕円形の火の川の奔流が現出したかのようで、壮観である。ことに楼門はこの凄まじい火の川の上り下りの接触点となるので、どうかすると互に焼討が始まる。棒頭の連中はその間で必死になって双方に突き分け突き分け、目覚しい働きをする。参拝を終った若衆は、汐井の式がすむと持場持場の松明の下に引き上げ、これから大松明を地上におろして「鬼火」の準備にかかる。

時を見計らって、社務所から総裁判、裁判などの人々が消火を命ずると境内境外の露天から大善寺町内燈火に及ぶまで一切明かりを消し、神燈までも消して、四方、真っ暗闇となってしまう

松明揃えと鬼火

十二時、鐘楼からゴーンと響く大鐘を合図に、用意していた一番松明は、数百名の若衆の肩にかつがれ、まるで巨龍のうねりのように動き出し、手松明をかざした小手振(松明組の総指揮者)を先頭に、潮のような群集をかき分けて、境内に進み、下向坂から神輿殿前広場に北向に据える。二番鐘、三番鐘に続いて、六番松明まで神殿前に並べられる。

皆、先を争って神社裏手、村役場前で神酒を酌んで持場に引上げ、小手振は自分の松明の上に立って威勢を張り、他の人は松明の両側で待つ、ちょっとでも他に後れを取れば末代までの恥辱だと腕を鳴らして構へている有様は物凄い光景で、これを「松明前」という。

小手振がもつ六本の手松明も消され、境内は再び黒暗につつまれるが、「ヨッショヨッショ」の掛声はひときわ高く叫ばれる。鬼に負けないためだそうである。ちょっとして神社の辺に一つの光が認められる。これが正月一日に神前に供した火打石で点火した「おにび」で、その「鬼火」は手松明に点けられ勾当坊という裸の男が、右手にかざしてこちらに進んで来る。彼の左右と後方を棒頭が保護している。「棒突」といふ十四、五歳以下の少年が猩々(ショウジョウ=ヒヒ)のような赤毛の冠物をかぶった異様な扮装をして、三尺ほどの樫棒を携えた一群が両側を警戒するが、「鬼の火」の歩みが一歩しては止まり二歩しては止まるといふ様子で、数十間の通路を辿りたどりして、やっと一番松明の火口に近づく。

「鬼の火」が一番松明だけについて、他の五本の松明のどれでも、点火が後れた松明は非常な恥辱とされているので、どこの松明も腕力の逞しい男を選び出し、枯柴を手に、「鬼の火」を奪いに来ると、一番松明組ではそうはさせないと必死に防ぐので、一番松明の火口では烈しいもみあいをする。同時に他の五本の松明の火口では迎火を燻らせて用意万端している所へ、「鬼の火」は一瞬にして一番松明に点火し、他の五本も瞬く間に、鬼火をつけると「ヨッショヨッショ」の勇ましい掛声とともに、これらの大松明は若者の携えた長さ二間ばかり無数の樫棒に突立てられ、六つの巨龍は天を仰いで爆声四方に響き、壮観を極め、参集した群集はどよめき、喝采する。

そら抜いだア

火の粉の雨を降らす松明の下、若者は身動きもしないので、樫棒で火の粉を振りはらう。この後「そら抜いだア」という式がある。

勾当坊の役で、二人が白い狩衣のようなものを着て、腰に一本の刀をつけ、一人は青、一人は赤の異様な天狗面をかぶって、一人は浅黄衣に浅黄の鉢巻、他方は赤衣に赤鉢巻で、青白ダンダンの丸くけのたすきを掛けて、鉾持一人を先に立てながら、神輿殿附近から松明揃の方面に除々と押出し、双方、立向かって、天狗は自ら鉢を取り、仕合の形らしいことをなし終ると、鉾持は件の鉾を取上げて「鉾取ったア」と叫んで神社に駆込む、すると天狗は寄っては離れ、離れては寄り、右手を揮って何か居合抜のような動作をする間に、両天狗の傍にいた者が、今度は天狗面を同時に奪い取って「面取った」と叫び、これも神社に駆けつけると、こちらでは素面素手のまま、やはり居合腰で向合ひ、双方気合を計って一斉に「そら抜いだア」と掛け声と共に腰刀を抜ぎ合する。これで「そら抜いだア」の式が終る。

旧藩の頃は「そら抜いだア」の掛声と共に、自分の腰の刀を抜くとどんな鈍刀も利刀になるとの伝説があって、帯刀の参詣者は皆、この時の掛け声に合わせて、一斉に抜刀したので、時々怪我人が出たという。

大松明の出動

同時に鐘楼の大鐘・大太鼓が耳を聾するばかりに乱打され、鬼が籠もっているという神輿殿の周囲には百名ばかりの少年の棒突きが取巻き、棒先で盛んに縁板を乱打するので、その音の凄まじさは寒夜の中、遠く数里の外に聞える。

同時に六本の松明は持場を動き出し「ヨッショヨッショ」の掛け声で、一番から六番まで、順次、本社と神輿殿との周囲を打廻る事五六回の後、一順、霰川に汐井を掻いて小路々々の根拠地に引揚げて、この勇ましい神事を終るのは午前二時も過ぎる頃である。(三潴郡誌に拠る)

(参照) 筑後の年中行事12ヶ月 篠原正一著

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