宮本洋学校

明治5年11月21日落成-明治7年12月頃閉校

学校建設まで:

明治5年(1872年)8月、
日本最初の近代的学校制度(学制)を公布した。

全国民を対象に学校を設けようとしたが、
財政的な裏づけがなかったため、授業料負担や意識の面などで問題が多かったし、
初期の小学校は藁葺きの民家や寺院の借家なども多く、教師1人に児童が数十人程度と寺子屋程度の規模のものも少なくなかった。

明治6・8年、三潴県の就学率は13.5%、14%で、全国平均の半分以下だった。

県は旧久留米藩洋学校と旧柳川藩洋学校を中学校とみなして、それを充実させるため、2つの中学校合併を考え、当時、久留米-柳川間の大善寺玉垂宮(三潴郡宮本村)に廃仏毀釈で廃寺にした跡地に新しい学校を建てることにした。

寺の土地建物の献上に対し、県は1000円を下げ渡し、久留米水天宮士祭祠官・真木佐忠の献納9200円、玉垂宮神宮・御船新の200円、県初代長官・水原久雄の150円を含む、旧藩士ら計88人からの寄付約800円、三潴県産物会社から1万円と西洋書籍350巻の寄付があった。

新校舎、寮、食堂などを建設、明治5年11月21日落成。校名を宮本中学校とした。
(学則不備のため明治6年2月23日から宮本洋学校と改称した)


学校の概要:

宮本洋学校 旧庫裡
現在も残る宮本洋学校の校舎(大善寺の旧庫裡)

校長格の柘植善吾との正式契約で、
教師として英国人のジョージ・オーエンの雇用(月給300円)も決定。

柘植善吾以外の日本人教師の平均は9円)まだ攘夷思想も根強い時代なので、西洋人に対する気配りは大変だったという。

この学校は定員150人をめざし、
初級の科目は、数学・英習字・英語・地理・外国史で、
正課の授業は午前9時から12時までと午後1時から4時までだった。

経済的に苦しい生徒には貸費制度も設けられていた。


中学総括:柘植善吾

1842年(天保13)久留米藩士の子として、十間長屋(現在の日吉小学校)に生まれた。
1863年(文久3年)英語研究の為、長崎に遊学。
1867年(慶応3年)藩命により25歳で米国ボストンヘ渡る。(海外へ出ることが許されぬ時代だった→密航した。)

明治維新後の流動的な時代、帰国した柘植善吾に対する藩内の理解は不充分だった。(久留米藩も混乱の中にあった)

明治4年、善吾は明善堂に併置された英学所(日新館、後に洋学校と称した)校長、
明治5年、大善寺に設立された三潴県立宮本洋学校の中学総括に任命された。
明治7年、宮本洋学校が廃止されると、善吾は日吉町から御井町宗崎へ移った。
その後20年間、東京で駒場農場(東大農学部)校長心得、
その他、福井等でも要職についたが、
明治32年再び宗崎に帰り、農地を耕しながら村民を指導した。
これからは農家も経済力をつけなければいけないと説いて財布から適宜5銭を抜いて貯える「5銭抜き」をすすめ、宗崎ではかなり長くこれが続けられた。
米国で民主的な政治、近代の経済と農業を垣間見てきた柘植善吾は、3代目町長(明治35年3月就任)を務めた

算術教師:梅野多喜蔵

久留米出身の人で、久留米藩海軍の蒸気船・雄飛丸で乗方修行、
勝海舟の海軍訓練所で数学・測量・航海術を修行。

後には久留米師範学校2代目校長、県立久留米中学校(明善高等学校の前身)初代校長となる。


閉校にいたるまでの事情

明治7年2月、佐賀の乱が起こる

筑後川をはさんだ久留米からは火炎が見え、大砲の音がとどろき、政府軍が久留米に宿陣した。
県は市中の家財道具のかたづけや老人子供の立ち退きを指示、
近くの城島町の芦塚や下田への反乱兵の乱入の危険を感じ、オーエンを長崎に避難させ、学校を閉め切った。

この後、柘植は県の別の部署に任じられ、 中学総括(校長)を離れることとなる。
明治7年4月に学校は再開したが集まった生徒は30余人。退職教師も出る。
明治7年8月の暴風で県下の学校は全壊。13校が閉鎖して小学校は70余校となった。

その他の被害も甚大で、ついにオーエンの雇用を継続することが困難となり、
残された教師も無念のうちに12月に辞職、同校は閉校に追い込まれた。
短期だったが、この学校の果たした役割には大きなものがあったと考えられている。

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