大善寺玉垂宮

由緒:

創建については明らかでないが、昔、景行天皇の皇子乳別皇子を始祖とする水沼君が、
当地をおさめられたとき、その祖神を祀ったのが前身ではないかとされている。

天恵7(953)年の「筑後国神名帳」にある「玉垂媛神」も前身と考えられるが、
平成15(2003)年に1900年御神期大祭を行った古社である。(社伝)

祭神は

○玉垂命(藤大臣、高良明神とも称する)    
*)藤大臣は、神功皇后の三韓出兵に大功があり、玉垂宮と神功皇后との関係が深い。    
「吉山旧記」によれば藤大臣は、
仁徳天皇55(367)年、賊徒退治の勅命を受け、この地に下り筑紫を平定し、    
仁徳天皇75(369)年、高村(大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫の政事を行ったが、    
仁徳天皇78(390)年、この地に没し祀られ、高良玉垂宮と諡されたと伝える。
○八幡大神
○住吉大神

天武天皇の白鳳元(673)年 三池長者師直が、玉垂宮の古跡に法相宗の僧安泰をして祭神を祀らせ、
そばに一宇の精舎を開基して御廟院高法寺と号した。
延暦年間、高法寺は天台宗となり、    
弘仁5(814)年嵯峨天皇の勅命により、殿堂、楼門、回廊など新たに建立し、善美を尽くしたので大善寺と改称した。
盛時には衆徒45坊、社領3000町を有していたと伝えられる。    
中世期には大荘園三潴庄の総鎮守社として朝野の尊崇を集め、    
建徳元(1370)年には征西将軍懐良親王への奏聞を経て「玉垂宮絵縁起」二幅が寄進された。(国指定重要文化財)    
戦国時代には度々の兵乱により荒廃し、    
元亀・天正の大乱で本殿・末社等悉く焼失したが、
田中吉政    
慶長6(1601)年、筑後に入国した田中吉政によって復興がなされた。(徳川吉宗は大善寺領として300石を寄進)    
慶長9(1604)年には梵鐘を寄進・慶長12(1607)年には鰐口を寄進、    
元和4(1618)年、2代田中忠政も表参道の鳥居を寄進している。
有馬藩になってからは    
慶安4(1651)年、有馬忠頼が「高良玉垂宮絵縁起」二幅を寄進。    
安永4(1775)年には銀2貫500目が下賜され楼門が再興された。
明治2(1869)年、廃仏毀釈により神宮寺だった大善寺は廃され、玉垂宮のみ残って現在に至る。

境内末社

佐野神(さやのかみ)

道祖神と同義で、塞神(さえのかみ 幸神)、岐神(さへのかみ)とも書く。
この神は猿田彦神に付会され、陰陽道の信仰と習合して種々の説がある。

戦前は遊郭街もあり参詣者も多かったが、
今なお縁結び・夫婦和合の神として根強い信仰があり、
最近は幸を呼ぶ神として合格祈願や商売繁盛の勝運祈願に訪れる人も多い。

生目八幡宮

目の神様として知られる生目神社(いきめじんじゃ) は宮崎県宮崎市大字生目にある。
品陀和気命(ほんだわけのみこと・応神天皇)と藤原景清公を主祭神とする。

景清は、源平合戦後、源頼朝の暗殺に失敗して捕らわれたが、源氏の栄達を見たくないと、復讐断念のために自身の両眼を抉った。

藤原景清の名は平景清、勇猛で「悪七兵衛」の異名を持ち、平家方で戦う。「悪」はとても強いことを意味する
生目八幡神社は各地にある(もとは西小路区の氏神で下の境内にあった)

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