大善寺に残る遺物など

鐘楼


刈又((カリマタ:鬼夜で大松明を支える棒)が立てかけられています
左:玉垂宮拝殿・本殿  正面(鐘楼)  右:阿弥陀堂(鬼夜では鬼堂・鉾面神事の舞台を設置)

神仏習合の名残

大善寺旧庫裡

宮本洋学校
現在、傍を流れる霰川(広川)の近くにどっしりとした建物があり、大善寺本坊の庫裡。
この庫裡は明治5(1872)年、「宮本洋学校」の校舎として三潴県に寄付された建物で、
現在の大善寺交番・校区コミュ二ティセンタ-近くにあったものが現在地に移された。

神仏習合の名残

傘橋道君首名(夜明神社)

傘橋の橋脚
石柱の基礎石は道君首名の墓石だったらしい

石柱の基礎になる大石には不明瞭だが模様がある。傍の大石2つと合わせ夜明神社、道君首名の墓石だったという。首名は、中央では大宝律令の選定に携わり、新羅派遣大使を務めたり、筑後守に任ぜられ、肥後守も兼任した初代国司で、三潴では灌漑や農業振興などに力を尽くした人。
(地域には大石が少ないので活用したらしい)

社務所の傍に立つの石柱(上左の画像)。これが傍を流れる広川に架けられていた神幸橋の橋脚石だった。
当時は現在の川幅の半分位(25mほど)だったという。

「抜河曳橋」

からかさを開いた姿に似ていたので「傘橋」と名付けられたが、嘉永4(1851)年の大洪水で流失したという。

当時は、川の氾濫で簡単に橋が流失するため、川にこの橋脚石を立て、これに両岸から橋桁を差し、
川が氾濫するとすぐに橋桁を外すことができた。

このとき、夜明神社にあった道君首名の大きな墓石3つを運んで橋脚の基礎石に使った。
最も大きな石には、丸い何かの文様が彫られた痕跡が残っている。(上の画像))

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主な社宝

年中行事

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松尾芭蕉の句碑(月梅塚)

春もややけしきととのう月と梅

芭蕉句碑:文化11年(1814)の銘

建立:春紫庵曉雨・夜明庵瓦屑
(夜明村大庄屋・川原氏の一族か?)

訳)

朧月の下で梅花がほころび、
やっと春らしい様子に整ってきた。

出展:元禄6年 薦獅子集
(木因宛書簡・真蹟画賛 芭蕉全句集p45 58)

公共交通

○西鉄電車大牟田線(福岡~大牟田)
大善寺駅下車(急行停車)徒歩5分
○西鉄路線バス
(JR久留米~大善寺経由~大川)
宮前下車 徒歩1分
○JR鹿児島本線
荒木駅下車 タクシー6分、
久留米駅下車 タクシー15分

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