山梔窩 (さんしか)

真木和泉守謫居地

福岡県指定文化財(史跡)指定年月日 昭和44年(1969)10月20日
筑後市大字水田242-1


真木和泉守・謫居の碑 山梔窩山梔窩の間取り

山梔窩は嘉永6年8月6日完成

左側の碑はかなりの高さで、「真木和泉守謫居之處」と彫られています。(大正3年建立)

久留米水天宮の第22代神官、討幕運動家・真木和泉守保臣:1813年(文化10年3月7日)~1864)
久留米藩の藩政改革を試みるが、守旧派重役らの反対で失敗、水田天満宮の神官(実弟・大鳥居理兵衛)方に謫居を命じられた。
嘉永5年(1852)-文久2年(1862)、9年9ヶ月、ここに住んだ。
山梔窩は「クチナシノヤ」(山梔=クチナシ、窩=小屋)とも読み、東西3間、南北2間半の茅葺平屋建。
和泉守は、ここで近郷の青年たち(豪農、下級神官)を教育した。(後に水田天満宮と山梔窩に挟まれた延寿王院を教場に借りた)

(注)謫居:罰をうけてひきこもること。遠い所に流されること)

山梔窩塾規 (法)

  • 忠孝の大義を思い、体得できれば実行すべきである。
  • 友人相互の交際を大切にし、もし過ちがあったなら、お互いに正面から忠告しあうこと
  • 礼儀正しく、立居振舞をきちんとすること
  • 志を立てるとき、自らの立場を越えてはいけない
  • 午前中の課業に励むこと
  • わずかでも金を出し合い飲食してはならない
  • 教場の延寿王院の器物を破損してはならない
  • 行灯などを乱暴に扱ってはならない
  • 履物を乱雑にしてはならない
  • 大声で呼ばわってはならない

上記に従い、

午後2時(八鼓)から
質問・習字
午後4時(七鼓)から
剣術・相撲
日没より
音楽
午後8時(初更)から
復習・習字
午後10時(二更)
すみやかにに帰宅する
・・・その他に・・・
月に 3回(9・19・29日)詩会
月に 3回(4・14・24日)習字の会
1852年(嘉永5年10月16日)
水田謙二・太三郎、淵上郁太郎(井村勘次)・謙三の兄弟、池上主水、角昭三郎、古賀簡ニ、荘山舎人、下川根三郎、吉武助左衛門などと子弟の盟約を結び、倒幕運動家が育つ。

淵上郁太郎:天保8年(1837)下妻郡水田に生まれる。父は延寿王院の寺侍・雑貨商・馬医者だった。
兄が死ぬと熊本の鳩野宗巴に入門し外科手術を3年学び天草で開業。大いにはやったが、弟・謙三と江戸の大橋訥庵に入門、尊攘の志士と交わる。
万延元年5月に帰郷、尊攘活動と医業を再開。
文久元年、藩校明善堂教官での1年間に平野國臣、真木和泉守、大鳥居兵衛らと会う。
文久2年、真木和泉守の脱出2日前の14日、角大鳥居照三郎と脱藩し京を目指すが藩吏に捕われ幽囚された。
翌3年、許されて真木直人(和泉守の弟)と上京、中山・姉小路公知ら尊攘派公卿に出入した。
同年5月、公知が暗殺されると朝命で犯人捜査にあたる。米藩国老・有馬監物は郁太郎の言うことに耳を傾けた。久留米人物誌p422
後に、暗殺された。(慶応三年 丁卯年二月十八日 祐廣 享年30才(*)一つ年下の妻があった。)

淵上謙三:p423。舟曳大磁p423池尻茂左衛門p80池尻茂四郎p81水田謙二・太三郎、池上主水、角昭三郎、荘山舎人、下川根三郎、吉武助左衛門は掲載なし。

この頃、加藤米山工藤謙同(複数回) 来訪。
加藤米山:庄島忍町の人、安積良斎の門人、天保11年、明善堂講官、後に監察に転じ、江戸勤務、明治元年戊辰の役で久留米藩隊の軍監に任ぜられた。断髪令に従わず、廃刀令後は鉄杖を腰にした剛直の人。明治20年(1887)3月20日没。享年74歳。墓は寺町妙正寺。
1860年(万延元年9月26日)平野国臣が来訪
1861年(文久元年12月6日)清川八郎が来訪 この頃、宮部鼎蔵などが訪れて、勤王討幕運動について相談した。
1862年
(文久2年2月4日)
羽犬塚(現筑後市)で大久保利通(京から鹿児島へ帰る途中)と会談、薩摩藩の奮起を求めたが、良い返事は得られなかった。
(島津久光は、寺田屋事件まで公武合体の姿勢が不明瞭で、倒幕派の浪士たちは薩摩藩に期待していた。)
(文久2年2月14日)、淵上郁太郎、角大鳥居照三郎が脱藩する。
(文久2年2月16日)、和泉守は淵上謙三、吉武助左衛門を従え山梔窩を脱出。薩摩に向う。 真木菊四郎は後を追う。
原道太鶴田陶司荒巻羊三郎中垣健太郎酒井傳次郎古賀簡二も脱藩、豊後路を行った。
(久留米藩が真木和泉守らを捕らえなかったのは、当時、薩摩、長州は京都で活動し、幕府勢力は弱くなり、倒幕の気運の盛り上りも予想され、藩政の方針がゆらいでいたためと思われる。)
(文久2年2月19日)、土佐藩士・吉村寅太郎、処士・本間精一郎、浪士・淵上郁太郎が萩に至り、長州藩士・久坂玄瑞らと時事を論ずる。
4月23日、寺田屋事件
寺田屋表二階にいた有馬新七ら薩摩関係者は、島津久光の指示により殺害され、裏二階座敷にいた和泉守等の久留米藩、土佐藩などの志士たちは、4月29日、薩摩藩大阪邸に移された。
6月11日、久留米藩の白江此面が足軽33人を従えて和泉等10人を引取りに来た。
6月13日、和泉は久留米藩家老・有馬監物(篤長:佐幕派)に上書、
有馬監物:島原の乱で長崎に出兵した久留米藩の総帥
幽閉中の水野正名・木村三郎の赦免抜擢を求め、
佐賀藩で活動している田中久重を久留米に呼び戻し、軍事上の発明が期待できると述べている。
6月18日、古賀簡二は病気で死亡
7月9日、帰藩の途に着く。7月13日、小倉着。14日、風雨の中を駕籠で出発。木屋瀬-16日、松崎・油屋に泊まる。

1863年8月13日、天誅組の蜂起

久留米藩関係者:


酒井 傳次郎 26歳:監察
1938年(天保9)-1864年(元治元) 久留米藩士。名は重威。久留米藩老臣・有馬右近の家臣。
少年の頃、江戸で大橋訥庵の門に入り、3年学ぶ、帰国後、真木和泉と交遊、その尊攘論に強い影響をうける。
1862年(文久2)
脱藩して荒巻羊三郎とともに豊後を遊歴、長門で白石正一郎のもとに寄寓したが、島津久光の率兵上京を聞き、清河八郎の挙兵計画に参画する。伏見寺田屋で同志・荒巻、鶴田陶司らと捕われ、久留米藩に送られ幽閉される
1863年(文久3)
赦されて上京、禁門守衛の任につくうち藤本鉄石と知りあい、天誅組の挙兵に参加、
高取城攻撃の際、鳥帽子を被って真っ先に進み、それを大砲にうちぬかれてもなお前進したという逸話が残る。のちに捕えられた。
1864年(元治元)2月、
六角獄て斬られた。享年27歳。

小川 佐吉(宮田半四郎) 33歳:勘定方
1832年(天保3)-1868年(明治元)久留米藩士。名は師久、のち宮田半四郎と称す。久留米苧紺川の人、
和泉に師事し、尊王論に心酔していた。京都から江戸を遊歴して、会沢正志斎、安井息軒にも学んだ。
1863年(文久3)天誅組(盟主:中山忠光)は大和五條で挙兵。
佐吉は参加し勘定方を務めた。敗戦後、大坂・長州藩邸に潜み、後に長州へ逃れた。
1864年(元治元)
再度、大坂に出、長州藩邸で斥候任務、6月、禁門の変では和泉に従い天王山で戦うが敗れ、長州に帰る。
1866年(慶応2)
長州藩の遊撃隊司令兼参謀となり、四境戦争(第二次長州征伐)では奮戦して功があった。
1868年(明治元)
1月、遊撃隊長として伏見の戦いで激戦中に負傷、三田尻まで船で下り、治療したが3月11日没した。享年37歳。

半田 門吉 30歳:砲一番組長
1834(天保5)-1864(元治元) 久留米藩士。名は成久。藩の軽輩。
1855(安政元年) 目付役につく。
和泉守に傾倒。藩命で武田二郎と名を変え、たびたび時勢視察のため上京する
1863年(文久3)
8月、中山忠光ら天誅組の挙兵に参加、砲隊長となる。上田宗児とともに十津川を踏査し、中山らを導く。上野地の本陣で天誅組解散後も中山に付添い、鷲家口で負傷したが重囲を脱し、大坂から三田尻に逃げ、長州にしばらく潜伏した。
1864年(元治元)
7月の禁門の変、和泉守らと東上し鷹司邸て戦死。
門吉は文才にすぐれ『大和日記』を記す。享年30歳。

はりつめてたゆまぬものは大丈夫のあかき心の弓にぞありける


山口松蔵 28歳:小荷駄方下役 (半田門吉の家来) 詳細は不明

中垣 健太郎 23歳:伍長
1841年(天保12)-1864年(元治元) 久留米藩士。名は幸雄。和泉守の薫陶をうける。
1862年(文久2)
正月、清河八郎が中川宮の令旨を奉ずると称し、伊牟田尚平、安積五郎らとともに北九州に来訪し、挙兵を呼びかけた。和泉守や平野国臣、河上彦斎らが加担、健太郎も加盟、
2月、原道太、荒巻半三郎、酒井傳次郎とともに脱藩し大坂へ。討幕計画は寺田屋事件で挫折、久留米藩に送還され獄に入る。
1863年(文久3)
救されて京都守衛の任につくが、8月、天誅組の挙兵を聞いて参戦、五條代官所を襲撃した。天誅組敗走後も奮戦し鷲家口で捕えられ、京都六角獄につながれた。
1864年(元治元) 2月、斬られた。享年24歳

荒巻 羊三郎 23歳:槍一番組
久留米藩士で名を真刀(一説では半三郎、半太郎)。藩主有馬氏家臣、安政万延の間、側足軽、足軽目附を経て、江戸勤務の命をうけたが、
1862年(文久2)
酒井傳次郎と脱藩して豊後に出、海を渡って長州に行った。島津久光の上京を聞き、ひそかに同船して伏見に着。寺田屋の変で同藩志士10人と一緒に久留米に送還、幽閉される。のち赦されて再び上京。三条実美の守護兵となった。のちに勅命を奉じて西下する正親町少将を追って広島で書を呈し、その答書をもって京都に帰るが、ちょうど大和行幸の詔の出た時で、天諜組の義挙に参加。捕えられて京都六角獄につながれた。
1864年(元治元)
2月16日、六角獄で斬られた。享年23歳
明治2年1月24日、藩主は羊三郎の勤王を愛で、彼の後を継ぐ人を選び、兄、桂太が申請し側足軽元組となる。
「もろともに君のみためといさみ立つ 心の駒をとどめかねつつ」

江頭 種八 24歳:伍長
1839年(天保10)-1864(元治元)諱は国足。安政年間に先手足軽町方新組に編入、
1863年(文久3)
4月 京都守衛の藩命をうけ、6月上京、同年8月天誅組が大和五條に挙兵すると参戦、諸所を転戦敗走をかさね、のち幕府の捕吏に捕えられ、
1864年(元治元)2月16日 京都六角獄で斬られた。享年24歳

鶴田 陶司 24歳:伍長
1840年(天保11)-1864年(元治元)
久留米藩士。名は道徳または孝良。久留米藩医・道全の二男、兄・仙奄が早逝したため家を継ぐ。
1862年(文久2)
2月、仲間とともに脱藩、大坂に出て薩摩藩士に加わり、島津久光の率兵上京を待って尊攘の旗揚げを待ったが、公武合体論者の久光は尊攘志士を弾圧、陶司も同藩のもの10余人と大坂藩邸に引渡され、国もとで謹慎を命じられた。
1863年(文久3)
赦されて禁裡守衛のため上京。8月、大和五條で挙兵した天誅祖に参加、各地転戦ののち捕えられた。
1864年(元治元)
2月、京都六角獄で斬られた。享年25歳
久留米11代藩主・有馬頼咸は陶司の最期を聞き、後嗣の者を祐筆格にとりたて禄七人口を与えたという。
「たたかひの花を散らして今よりは よみじの月を見るべかりけり」

天誅組の構成:

文久3年(1863)、51歳、8月、
和泉守の考えどおり大和行幸の策が進められていたが

8月18日の政変で大和行幸は中止。御所警備は、長州藩から薩摩・会津に代えられた。
三条実美以下の七卿は長州に落ちのび、和泉守も七卿に従う。
9月、毛利敬親(慶親)に京都奪回説を説く
元治元年(1864)、52歳、6月、和泉守は久坂玄瑞と、各藩浪士で組織した清側義軍300名を指揮して京に上る。
義軍は山崎到着、天王山に陣を構え「七卿復職、長州公の入朝、攘夷発令の哀願書」を閣老・稲葉美濃守に託したが上には通じなかった。
和泉守は長州藩主・毛利敬親(慶親)に進言、国老・福原越後と国司信濃が兵を率いて京へ
7月19日、義軍は「禁門の変」で薩摩軍(西郷隆盛)に敗れた。
7月21日、和泉守は挙兵の責任を取り「大山の峯の岩根に埋めにけりわがとしつきの大和魂」の辞世を遺し、同志17人と共に天王山で割腹した。享年52歳

加藤常吉:池尻葛覃(茂左衛門)門下。
安政元年10月、藩校居寮生に選抜された。池尻茂四郎と上京を命じられて大阪藩邸にいたが、8・18政変で京都へ行き、和泉守の義軍に属し、蛤御門で破れ、7月21日、割腹。33才

*注)
4月13日、久留米藩論の急変で藩内保守派により和泉守が投獄された時、同藩の小川佐吉、深野孫兵衛は脱藩上京、長州藩・寺島忠三郎等に助けを求めた。
長州藩は、三條実美に掛け合い「和泉守らを穏便に取計らうように」との朝命が長州藩に出された。

5月10日、中山忠光は長州・肥後の藩士計9名を伴い、和泉守を解放し京都へ呼び戻すために久留米藩へ出向いた。
5月12日、久留米藩は城門を閉じ、石野道衛、松岡傳十郎が家老に掛け合ったが返事がなかった。
5月13日、怒った忠光が帰るのを松崎まで追いかけ、
5月14日、呼び戻した忠光に詫びを入れ
5月17日、ようやく、和泉守以下20数名は釈放された。
この件で志士等は忠光を主将格と仰ぐようになったという。(中山忠光は明治天皇の叔父にあたる)

1864年(文久4年)禁門の変(蛤御門の変)に参戦、敗れて京都天王山で同志16名とともに自刃。

久留米藩:真木和泉守・52歳、加藤常吉・33才、松浦八郎・29歳、池尻茂四郎・25歳)
(福岡藩:松田五六郎・38歳)
(熊本藩:西島亀太郎・32歳、中津彦太郎・30歳、宮部春蔵・26歳、小阪小次郎・22歳、加屋四郎・21歳、酒井庄之助)
(高知藩:松山深蔵・28歳、千屋菊次郎・28歳、安藤直之助・22歳、能勢達太郎・22歳)
(宇都宮藩:広田精一・28歳、岸上弘・28歳)

彼等の屍は、会津藩兵の命令で、村人が宝寺塔前に穴を掘り、埋めて竹垣で囲ったが、いつしか「残念さん」といわれ、その墓を参詣する者が後を絶たなくなったので、幕府はこれを嫌って庶民の登山を禁じ、遺体を発掘して観音寺山下の竹林中に移し埋めた。
明治元年(1868)9月、和泉守の嗣子(佐忠)が久留米藩主の命で、十七士の遺骨を竹林中から収集し、割腹の地に改葬した。

久留米人物誌余禄

和泉守は、倒幕・王政復古を唱えた。後期水戸学の尊王論は幕末維新に多大の影響を与えたが、
和泉守はその主張を進めて、公武合体論の広まりの中、天皇中心の国家を目指し、その実現のために、はじめ薩摩藩を動かそうとし、最後に長州藩を足場に薩長連合の必要性に(坂本竜馬より早く)着目していた。

彼は平安時代の復古主義的な理想を追い、
明治維新へ時代が移る中で、先駆的役割を果した。

久留米藩から天誅組に参加した8人( 鶴田陶司、荒巻羊三郎、中垣健太郎、酒井傳次郎、半田門吉、山口、小川佐吉、江頭種八)彼等のほぼ全員が、和泉守の薫陶を受けている。

*)山梔窩に祀られている50人
◎和泉守保臣・真木菊四郎(四男)・大鳥居信臣(弟)
・真木外記(弟)
●△荒巻半太郎(羊三郎?)・江頭種八
・大鳥居小太郎・大鳥居菅吉(理兵衛の子)
・大鳥居琴治
・小川佐吉・河原忠蔵(久留米藩士)・黒岩種吉
・古賀簡二・△酒井傳次郎・清水源吾
・下川根三郎(渕上政子の弟)・角大鳥居照三郎
・下川瀬平・荘山敬功・△鶴田陶司・△中垣健太郎
・原道太・△半田門吉・深野弥兵衛
・渕上祐吉(郁太郎の父)・渕上政子(郁太郎の妻)
・渕上祐之・渕上謙三(郁太郎の弟)・古松簡二
・松浦八郎・水田謙次(天狗党?)・宮崎士太郎
・横枕覚助(自由民権?)・吉永助左衛門
●池尻茂左衛門・船曳大磁・船曳鉄門
・水野丹後・○宮崎阿波守信敦・吉田丹波
△:天誅組 ○神官

*)おことわり:久留米藩監視下に蟄居していた真木和泉守の学識・思想・人格にひかれ、教えを受けた人たちの出会いは、必ずしも「山梔窩」に限定されないと思いますが、整理の都合、ここに列記する予定です。


石野道衛:天保8年(1837)12月13日、櫛原公示番目に出生。嘉永5年3月19日、小姓役。藩校明善堂の肝煎役。
慶応3年2月、四日市陣屋へ喜多村弥六の沿役として出張するも慶応4年1月16日、陣屋が浪士に襲われ、明治2年(1869)1月25日寺町徳雲寺で今井栄ら7人らと屠腹させられた。

太字で表示した人たちは山川招魂社に墓碑があります。

参考文献等:
真木和泉保臣先生「殉道百三十年誌」真木和泉守先生没後百三十年顕彰事業推進委員会
岩崎英重編「維新日乗纂輯第ニ」加藤任重の日記(日本史籍協会)所収
「筑後市史」
現地説明看板


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