資料「鬼の修正会」

由来と経過

おことわり:以下の文章は古い文書を参照していますので、日付等は現在行われているものと異なります。(歴史的背景を知るための参考に)

熊野神社鬼の修正会(別名・追儺(ついな)祭は、悪疫退散・五穀豊穣・鎮火を祈願して、毎年1月10日に行われる勇壮な祭りで、裸の若者のかけ声と、鐘と太鼓の音にはやされて、大松明が夜空をこがす郷土の代表的な神事である。

この行事は藩政時代まで、「坂東寺鬼の修正会」といい、坂東寺の大切な行事として大庄屋の指図とその配下によって大規模に行われていたようだが、明治になり廃仏毀釈のため坂東寺が廃止されたことによって、鬼の修正会も隣の坂東寺につながる熊野神社に移り、熊野神社の氏子によってつとめ奉仕され今日に至っている。

(明治以前は神仏混淆だったので、山伏も寺仕えをして仏道修行の修験者としてつとめていた記録も残ってるそうですが、神社と寺が密接な関係を持っていたことが、今では理解しづらい部分になっています。)

この熊野神社は筑後市大字熊野にあって、JR鹿児島線羽犬塚駅から西北4キロのところにあり、標高十数mの台地上にある大木に包まれた界隈でもある。(現在、大木は少なくなった印象をうけます。)

かってこの熊野村は、1200年の歴史と広川庄770町歩を誇る坂東寺の中心に位置し、全域坂東寺の自治にまかせられていたようである。 したがって鬼の修正会にしても、広川庄一円からの参加と協力によって執行される盛大なもので、鬼まつり・火祭り・大松明ともいわれ随分賑わったようである。

その起源については、明応2年(1492)2月成就院法印信覚の法会次第書に「正十日鬼修正」とある修正会が、この鬼祭りの催しとして、毎年旧正月十日、当寺における年中恒例の一つとして継承されたもので、その行事の模様は坂東寺記録として残されている。

「もと本寺は本尊薬師如来にて、いま本堂より北七間の処に大堂ありて、例年正月十日夜月の入りてより、松明を十二本皆々裸体にて梵鐘を撞きつつ、堂外を廻したるを恒例とせり、是れ薬師如来の誓願に準じ十二の灯明を上献するとの意味なり」

祭具の明細と要件

鬼の修正会に必要なもの:備品として同社に保存されているものの他、その年の祭り行事に必要なものは逐次準備されている。

大松明:3本(藩政頃までは6本)
長さ13m、先の周り2.7m木を中心にして竹を束ねたもので、神社広庭にかざり、鬼追い行事の時、若者によって社殿を廻る(3周)
差松明:3本
元松明より大松明に火を移すもの
元松明:1本
神殿にて火打石で点火し、大松明に火を運ぶ。竹とこえ松で作る。
鬼面:1個
鬼追い行事につけるもの。材は楠、朱塗り
つつみ布の記録に「奉納 鬼会御宝前 戌正月十日(嘉永三年)熊野村与市」とある。
小松明:数百本
こどもの数だけいる。こども松明行事に入用
鬼笹:12本
束ねた笹で、鬼追い神事の際、暗夜に鬼を取り囲む。閏年は笹の数13本
刈又:200本
松明を支え持つためのもの。材は昔は樫、今は杉材
:1個
使用されていたつり鐘は戦時中に供出、新たに作られた大釣鐘を使用
太鼓径2尺(約60cm):1個
鐘と共に鬼追いに使用

神事の順序

鬼修正行事には、竹や木等多くの燃料材が必要なので年間を通じて神職中心に宮総代としても配慮されているが、ここでは触れられていない。

正月2日
氏子農家では初仕事に松明用縄を早朝作る。今でも一部農家で続けられている
正月7日
氏子総出で松明を結びあげる(大松明・元松明・差松明・鬼笹)
正月7日
宮司はこの日より「別火入り」をはじめる。別火とは、宮司一人、一室を注連縄を張廻し、他人の入室を禁じ、毎朝水浴、心身を清め煮炊きをはじめ一切を自分で行い、他人との交渉は許されない。食物は「かゆ」、副食は塩湯(お茶のかわりに)・梅干・塩鰯等

正月10日 鬼の修正会神事

1)小松明神事

午後5時:追儺祭執行
神前に供える灯明は火打石で採火する。 こども松明行事、手に松明を持った氏子、近隣のこども数百名が神前に集まる。この時宮司神前のあがりより、小松明に火を移す。一斉に点火が終わったこども達は、鐘・太鼓の乱打につれて燃えさかる松明をかざし、社殿を廻り鬼を追う、2,3周

2)大松明神事

19:30 一番鐘
氏子の青壮年は、各組の中老宿に集まり、神酒をいただき、各自水をかぶって身を清める。
20:00 二番
各自裸(裸・腹巻)となり手に松明をかざし宿からお宮の大松明前へ移動。
20:30 三番鐘

境内や周りの火を一斉に消し暗夜となす。(広場では青壮年が気勢を上げている)

(鬼追い神事)
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