坂東寺石仏群

坂東寺・熊野神社の歴史

坂東寺の起こり

明治以前は神仏混淆で、坂東寺と熊野神社を一緒にしたものを坂東寺とよんでいて、歴史は非常に古い。

寺の起こりは、桓武天皇の延暦22年(803)頃、最澄(伝教大師)が薬師如来像を作り、七間四面の堂を立てて安置し、坂東寺(旧名広福寺、1348年神託によって改めた)の本尊としたとされている。

桓武天皇は広川庄770町の正税を神社僧坊の法供にあてることの綸旨が出ていて、古くからの広川庄があるという。

鎌倉時代初期(1230年頃)の広川荘は35の名(みょう:課税単位)・丸(まる)から構成され、707町2反4丈の面積(天福2年2月「岡本文書」)を有したという。

坂東寺の寺領は広川荘内の福万名だと考えられている。

また、坂東寺の熊野神勧請が、川原源七郎によって久安2年(1146)この地にもたらされたという。

*)和歌山県の熊野大社から出された「熊野をたづねて」には、御分社のこととして全国に分布する熊野社の数は3000にも及ぶが、福岡県八女郡羽犬塚鎮座の熊野神社は、神仏領である広川庄に勧請されたことをあげてある。

広川庄には次第に寺が建てられ120寺院に及んだとあるほどに仏教が庄内に普及されていった。

そのうち藤田(広川町)の国宝寺・下富久(筑後市)の最福寺・蔵数(筑後市)の宗西寺・富重(筑後市)に普門寺・室岡(八女市)に室岡寺等の名をとどめている。

坂東寺五重塔

板東寺石造五重塔

(県指定文化財 有形文化財・建造物 昭和36年10月21日指定)

元は東西に二塔あったとされており、現在はこの西塔のみ残っています。

西塔は貞永元年(1232)8月に造立され、在銘五重塔としては筑後地方で最古のものです。

初層塔身には四方仏[蓮華座の如来座像で、阿閤(東)・宝生(南)・阿弥陀(西)・不空成就(北)]を浮彫にし、各層塔身には四面に梵字が刻まれています。
基礎石の梵字を含め、密教で説くところの
五大(空・風・火・水・地)
種子の四転(発心・修行・菩提・涅槃)
となっています。

筑後市教育委員会
・筑後郷土史研究会
・筑後ライオンズクラブ
平成13年3月(現地・解説板を転記)

(四方仏も金剛界・胎蔵界・顕教で違うようですが、金剛界の仏名が表記されています)

元弘4年(1334)2月9日の坂東寺文書によれば

そもそも当寺ならびに此の宮社は、延暦中(延暦22年:803)ごろ伝教大師がたてられた寺社です。そして天承元年(1131)に寺の領地が始めて広川庄として公認され、
長承元年(1132)に鳥羽天皇の中宮侍賢門院に庄園を寄進して領家職となってもらったが、
保延4(1135)年になると、侍賢門院が領家職を紀州の熊野山に寄進されたので、それからずっと引きつづいて、熊野山の支配に従っている。という意味のことが書いてある。

*)江戸時代の地名と、名田名との一致するものを取り出してみると、北は知徳村、坂東寺村、蔵数村。西は久富村、富重村。南は若菜村、秋松村。東は長徳村、古賀村、吉里村を限りとしたと思われるが、770町という広川庄も盛んな時代は千町を越えたと考えられる。

(九州庄園史料叢書)

戦乱による焼失

元弘3年(1333)12月21日、熊野山常住院(坂東寺)御代官助・阿闍梨幸有と長床衆・刑部坊以下の相論合戦のとき、熊野宮、坂東寺などが焼失した。
このことで寺の起こりからの宝物のすべてが灰になってしまった。

室町時代 領家熊野神社の威力も、南北朝の戦乱とともに九州路には及ばず、比叡山の勢力が坂東寺を復興し、山王七社を造営した。

観応2年(1351)10月の延暦寺政所の下文は「末寺坂東寺は今より以後、院主所感に従うべきこと」申し渡したものだが、これで広川庄全体の領家職が延暦寺に帰したとはいえない。

応永27年(1420)坂東寺の惣政所、陳中柄務入道正徹は元弘の戦火でなくした縁起を求めに熊野三山に旅立ち、本宮大社・新宮大社にまいり、縁起供養を12月15日に行った。那智権現で縁起供養をおこなった。

正長2年(1429)8月22日に発給された古文書によると広川庄は武士領となっていたことがわかる。

坂東寺の復興そして再度の焼失

永禄7年(1564)大友宗麟が筑後に入り、筑後国中を平定し、坂東寺の復興につとめ神殿・拝殿・楼門末社等の造営をした。
広川庄770町といわれた神領も大友宗麟によって大部分返された。
また、肥後の菊池氏、西牟田氏、川崎氏、安武氏、蒲池氏等の寺領寄進で面目を一新した。

天正12年(1584)竜造寺隆信は、肥前の有馬仙岩を島原に攻めたが、有馬氏に味方した島津の軍勢のために破れ、3月24日に隆信も戦死した。(筑後の諸豪は殆んどが島津に服属する状態になった)

大友氏は筑前から筑後に入り、熊野の坂東寺に陣したが、従っていた家臣の戸次道雪・高橋紹運は西牟田をはじめ所々に放火して民家数百軒を焼き払ったが坂東寺も焼かれ、桓武天皇の綸旨、御教書当国の大満帳、縁起等全部焼払い、仏教経巻宝物等を紛散してしまった。住持・信応は捕らえて西牟田の流村で殺害。

これらの兵乱で衆徒等は離散、天正12~13年にかけて無住時代が続き古法の式も絶えた。

坂東寺の建立・復興

天正13年(1585)頃、生葉郡(現うきは市)長岩城主・問注所の次男快心という僧が、坂東寺を建立し坊社を造作し、大友宗麟に訴えて1587年迄に福間名30町の寺領寄進を受けた。

快心の没後、福嶋城主・筑紫広門時代に心興僧都が住持となり、広門の援助で神社仏堂、僧坊、鐘楼仁王門、楼門、末社に至るまで大方の建立ができた。

*))筑紫広門は、豊臣秀吉の天正15年の九州征伐の功賞により山下城1万8千石の領主に任ぜられたが、後に福嶋城に移った。関が原役で西軍に味方したので所領を奪われて熊本の加藤清正に頼った。

天正17年に上広川・下広川庄ともに久留米領となった。

黒田如水と加藤清正

黒田・加藤、坂東寺への出陣
*)八院村の合戦で坂東寺に陣をしいた。 慶長5年10月15日、加藤清正の「坂東寺への放火等禁制」や同10月18日の黒田如水からの「下広川庄における乱暴狼藉などの禁制」はこの時のものである。

田中吉正政が筑後国主となると、青蓮院門跡から坂東寺再興の申し入れがあり、寺領358石を寄進されることになった。以後、竹中采女正-有馬氏入国まで、寄付高に移動はあるが引き継がれていく。

坂東寺職事と山伏 衆徒・社人・勾当・山伏・神子等があった。(神仏混淆であるので山伏も寺仕えをして仏道修行の修験者としてつとめていた。)

*)八院村の合戦:関が原の戦いで西軍だった立花氏は、鍋島軍と大木町・城島・大川の境に近い八院村~城島あたりの広範囲で激しい戦闘を行い、後に立花氏は国を失うことになる。

上広川庄:(21か村)

古賀(7町)・川瀬(23町)・扇島(3町)・長徳(3町:15丁2反)・増長(3町)・吉里(8町:3町8反)・鹿田(3町)・大田(15町)・甘木(16町)・牟礼(3町)・内田(4町)・当条(25町)・吉常(26町)・知徳(3町:52反)・久泉(3町)・一条(16町)・長延(15町)・藤田(15町)・大原(3町)・高間(3町)・清楽(2町)=計200町

下広川庄:

若菜名(21丁5反)・富末名(95反)・坂東寺 ・蔵数(143町)・久富(31町)・富重(44町4反)・秋松(23町9反)

(九州庄園史料叢書広川庄史料付図)

「坂東寺史」編者:右田乙次郎

発行:坂東寺総代宮田智氏・筑後郷土史研究会から引用

仁王像(左)

*)熊野の鬼夜は「鬼の修正会・追儺祭」ともいわれる正月5日に行われる宗教行事で昭和44年に県無形民俗文化財に指定された。もともとは坂東寺で「正十日二鬼修正」として行われていたが明治時代の廃仏毀釈で熊野神社に移ったもの。

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