式内大明神縣社

美奈宜神社

朝倉市三奈木・寺内

祭神

住吉大明神
天照皇大神
春日大明神

配祠

神功皇后
竹内宿禰

創設

第十四代・仲哀天皇は、山口県長門一宮から、筑紫方面へ軍をすすめておられた。
しかし、天皇は急に病気になって亡くなられました。

神功皇后はこのことを秘めて竹内宿禰等を従えて敵対する羽白熊襲を討つために小山田邑を軍立ちされた。
当時、熊襲は白髪山( 古処山)を本城として良民を苦しめていました。

皇后等は喰那尾山(栗尾山)に陣をしき、竹内宿那らとの軍略を練り、これを討ち取られた。
そこで賊の大将を討つことができたのは、出発の時に小山田邑でお告げをうけた「三神」のお助けによるものとして、
三奈木川のほとり「池辺」の地に「ヒモロギ」を立て、神を招いて戦の勝利を奉告された。

羽白熊襲塚は矢の竹真奈板原(水の文化村域内)
「ヒモロギ」神籬・霊宝城・神を招請して祭る設備

本宮

のちに神功皇后の孫・第16代・仁徳天皇の勅願によって、この「池辺」の地に神社を勧請されました。
これが美奈宜神社のはじまりとされています。
後世、ここを「本宮」または「元宮」といいます。

「池辺」の「本宮」跡には昭和50年9月、記念碑を建立

社格

第56代・清和天皇の貞観元年正月27日「従五位上」を授けられる。
=奉授筑前国従五位上= これは「三代実録」の文中にみられる。

貞観元年=日本紀元1550年・西暦859年

第60代・後醍醐天皇 勅撰書、延喜式 第十巻神名帳の中に「筑前國下座郡美奈宜神社三座大名神」の記載がある。

延喜元年=日本起元1561年・西暦901年
美奈宜神社御鎮座傳記によれば
林田(事代主命)・美奈宜(住吉三神)・田代(向津媛神)

延寶6年10月18日、京都の神祇官領長・吉田卜部兼連朝臣は、この宮が式内社であることを表し、
後世の証拠として白絹に直筆で、『天照大神 住吉大神・春日大神 美奈宜神社』と書いて、
更に宰臣 鈴鹿守に命じて『青龍・白虎・朱雀・玄武』の四神の号を絹の布四旈に書かせて奉納した。

延寶六年=日本起元1338年・西暦1678年

御遷宮

上宮
大宝元年3月22日、神託により旧陣地跡・喰那尾山(栗尾山ともいう)山頂に社殿を建て、同年9月22日に移す。
この時、神功皇后と竹内宿禰は、本社に縁由深いものがあるとして相殿に祀る。

大宝元年=日本起元1361年・西暦701年
旧暦9月22日を太陽暦10月22日となし、これが御神幸のはじまりと伝えられる。

中宮
喰那尾山頂は暴風雨等、憂い多いため、5町程下の「大宮谷」に社殿を移す。ここを中宮という。
現在
天正2年、領主・秋月父子は御神に対する尊崇信心深く、
「大宮谷は境内が狭く、谷も陰湿、しかも道険しく参拝にも難義する」として、現在のところに社殿を建てて移す。
この頃は神領五十余町、十余坊ありて、神官・仏僧等36人、奉仕していたという。
天正17年、豊臣秀吉が九州征伐のとき敵対した秋月家が「日向國高鍋」に移されるとき、
神領、社人、社僧の所領もことごとく没収されたので生活を求めて思い思いに離散、
多くは秋月種実を慕って「日向」に至ったという。
この時、古来伝わる演義や多くの寺宝も紛失した模様で、あとには大宮司だけが残ったという。

天正2年=日本起元2234年・西暦1574年
天正17年=西暦1589年

社殿再興

福岡城主・黒田甲斐守長政の大家老・黒田美作一成が、寛永16年旧9月、社殿を再興し、
更に三代・黒田三左衛門一貫が、寛文年中に再建したものが今の社殿である。

寛永16年=西暦1639年
寛文年中=西暦1661年~1673年

楼門

寛文年中に建立。「至誠」の扁額は明治34年、秋月種樹の書

明治34年=西暦1901年

鳥居

元禄6年11月、十村の産徒(氏子)が寄進した。(二の鳥居)

元禄6年=皇紀2353年・西暦1693年

神輿

寛永5年=皇紀2288年・西暦1628年
貞享2年=皇紀2345年・西暦1685年
正徳4年=皇紀2221年・西暦1714年

御旅所(おくんちの御神幸先)

1:
寛永年間の初めまでは本宮であった。しかし川を隔てており、もし水量が増したときには御供のことを考慮して、一の鳥居の下流の方を御旅所と定め、形ばかりの御紙幸が行われていた。
2:
宝永3年9月、御幸所改まり「桑ノ木津ル」(桑鶴)・・・ここは村北にあたり、御社よりは7町ばかりの距離があり、宮司田、燈油田等の小字名があり、昔の神領であったという。
3:
古来御幸は御社より20余町の「二本木」という所、上下に土器田、燈明田という字名あり・・・
4:
「村西の方23町ばかりの「桑原道」に2畝ばかりの野地があり、往古はここまで御輿御幸あり」と伝える
5:
その後、星熊の東方に清浄な地を選んで、四方に松を植えて、しるしとし御輿を休めて「九番の神楽」を奏する等の祭礼があってのち還御せられていたという。

宝永3年=皇紀2366年・西暦1706年

御祭礼

毎年10月22日「五穀豊穣」を感謝する秋の大祭「おくんち」には約200人の御供行列が終日行われるが、
この行列は、昭和49年(1974)10月、「甘木市無形文化財」に指定された。

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