甘木盆俄の歴史

由来

甘木での祇園踊り・盆踊りの起源は、鎌倉末期(1331年)祇園社の開山式に奉納された”風流”からとされている。

元禄12年(1699)庄屋町の原喜左衛門が子供に踊りを教えて祇園社に奉納し、町々を巡演した。

これが他町に普及していった。この踊りは、初めは風流・舞・操り・神楽等であったのが次第に歌舞伎に転向していった。

この祇園踊りが歌舞伎に固定化してくると郷土人の好尚に適し全町挙げて熱演するようになった。祇園踊りの黄金期だった頃の天明4(1784)年、更に盆踊りが出現した。

「光照寺過去帳」に「天明4年、9代霊乗 昨年から盆14・15日より20日夜まで、毎夜、にはか出来せり。思ひ付次第に芸するものあり、歌舞するものあり、或いはものまねするものあり。三十町中をあるき、夜半に至る。乗、為以(おもえらく)これより当来には、祇園踊りの如くなるべきか。」とあるように、霊乗の予見の通り、年々祇園と盆の両方に、歌舞伎が施行されるようになった。やがて、山笠の豪華と、歌舞伎の絢爛と相まって郷土民芸として熱演され、愛着をもたれていった。

天保5(1834)年並びに6年、7代目市川団十郎の大一座が甘木に来演し、十日間、超満員の盛況を呈したが、団十郎は、梅西舎塾の佐野東庵に、「未だかって、この土地の様な熱烈な観客の眼に出あったことはない。自分が最も苦心した芸の勘どころで拍手を送る観客の勝れた鑑賞眼には驚いた」と感嘆したという。

明治6年の百姓一揆で停止後、明治8年に盆踊りのみ復活したが、秋月騒動、西南役等で又々中止になった。
明治12(1879)年から復興し、明治の子供歌舞伎(チンコ芝居)は盛況となった。
(明治40年:1907年、学校から差し止めとなる)

明治31(1898)年限り、学校からの差し止めで、少年に代わって青年の出演となった。甘木盆俄は「若手」が演じ「当世(とうよ)」が世話役、「中年(ちゅうねん)」が実権を握り、甘木18ヶ町が町を挙げての仕組みとなり、明治末期から、大正昭和初期にかけ黄金期となり、庶民の芸能文化の重みを増していった。

昭和12年、日支事変により中止となった。

戦後、昭和23(1948)年、12ヶ町に舞台が建ち、内歌舞伎が9組で復興した。25年から10ヶ町が本来の仕組みに立ち帰ったが、10年間の戦時中の空白と、諸道具の散逸等、復興への熱意は見られたものの、時代相の変遷と経費の点で、ついに昭和29年で絶えた。

昭和34年、同好の士の愛着より、4舞台で巡演、佐々木滋寛の観劇、KBCの録画となる。

昭和38年には復活論が再燃し、名士・一般愛好者・婦人会で4ヶ所の舞台を巡演した。つづいて翌39年、40年の3回で止んだ。

昭和56年、甘木連合文化会の呼び掛けで保存会が発足。なつかしの甘木盆俄(歌舞伎)が16年ぶりに復活し、第一回の保存公演となり、31年目を迎えることになった。

平成2年2月、甘木市無形民俗文化財の指定を受け、名実共に郷土の伝統芸能となった。

平成8年12月愛知県芸術劇場大ホールにて公演「寿曽我対面 工藤館の場」(動画)

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