松田諦昌

松田諦昌胸像
Jr前日吉神社境内に立つ像

松田諦昌は久留米市京町に生まれ、若くして太平洋画会に入選を続けた。
来目会の結成に加わり、その中核となって活動した。
また二科会の創立より出品を重ね、認められていたが、まもなく中央画壇から離れ、
郷土にあって自らの画業を深めるかたわら母校 久留米商業高校で美術指導をした。
後には来目洋画道場を開き、数多くの後輩を育て、今日の筑後洋画壇の隆盛の礎を築いた。

1987・5・20

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  • 明治19年(1886)12月14日、京町の旧藩士の家に出生。浮羽郡に転住していた。
  • 明治32年、久留米に戻り、久留米高等小学校転入、
    青木繁坂本繁二郎らと共に森三美(*注:下記)に絵を学ぶ
  • 明治33年 久留米商業高等学校進学、盛んに絵を描いた。
  • 明治37年 卒業、久留米市役所や絣同業組合に就職し、退職後は絵筆一筋
  • 明治43年、太平洋画会展に初入選。この頃から古賀春江に絵を手ほどきをする
  • 大正2年、東原経治、大野米次郎、古川潤二らと来目洋画会を創立
    (大正11年、来目会と改称)
  • 大正3年、二科会初展覧会で入選、上京、石井柏亭に学び、二科賞候補にもなる
  • 大正11年、古賀春江のデビューと入替わりに中央と縁を絶ち、
    諦昌と号し来目会の中心メンバーとして久留米で後進育成に努めた
  • 昭和6年、久留米洋画研究所を開設した。(伊東静尾・坂宗一らが教え子)
  • 昭和23年から久留米商業高等学校の美術教師をつとめる
  • 同36年、久留米市文化功労賞を受ける。
    坂本繁二郎は「土性骨の入った絵描きだ」と評した。
  • 昭和36年(1961) 12月8日没。享年75歳
  • 昭和38年4月12日-17日、井筒屋デパート(久留米)で遺作展
櫨紅葉音羽護国寺(f30号):福岡県美術館にある作品(link)

森 三美

明治05年(1872) 久留米市に出生-大正2(1913)41歳で没

  • 明治20年(1887) 京都府画学校(現・京都市立芸大)入学。21年、小山三造に師事
  • 明治24年(1891) 帰郷
  • 明治27年(1894) 久留米高小の図画教員、私宅で画塾を開き、
    洋画の遠近法や明暗法にもとづく絵画を教えた。
    (青木繁・坂本繁二郎・東原経治・大野米次郎らが出た)
  • 明治34年(1901) 中学校図画科の教員免許を取得、東筑中(現・東筑高)
  • 明治40年(1907) 佐賀中(現・佐賀西高)に勤めた。
  • 明治39年(1906)頃、門弟を中心に審美会を結成→来目洋画会に発展

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