有馬頼咸(よりしげ)(淵龍院)

11代

文政11年(1828)7月17日、藩主・頼徳の七男として久留米城に出生。生母は立石氏。 幼名は赤松孝五郎、のちに頼多(よりかず)と称したが、弘化3年(1846)12月1日、将軍・家慶より一字賜わって慶頼(よしより)と改め、 明治元年8月に頼咸(よりしげ)と改名。号は対鷗。兄頼永の病が篤くなるとその嗣子となり、弘化3年(1846)10月12日、11代藩主となる。

慶頼は、はじめ先代・頼永の施政方針に従い、弘化3年(1846)12月21日、前代の大倹継続の令を出し、嘉永4年(1851)4月29日、はじめて入封すると、その12月には、先代大検令の際の封内借居(かりすえ)金90700両のうち、9400両余を返済した。

この間の嘉永2年(1849)12月4日には将軍・家慶の養女精姫(有栖川韶仁親王の王女韶子)と婚儀の式を挙げた。この婚儀及び夫人の御殿普請の費用として準備された金は7万7千455両で、この事に当たったのは参政・馬渕貢だった。

久留米藩難事件へ発展した内部紛争

馬場は精姫が新築御殿に引き移った後の事について書付(秘事8か条)を藩主に提出。納戸役・今井栄、近侍・衣笠弥八郎は、藩主の秘箱から秘かに、倹約を弛め奢多に導く文意の馬渕が提出した書付を写し取り、参政・村上守太郎などに示した。これが原因か、村上は藩邸で馬渕が国老と対談中、馬渕を刺傷し、自らは国老・有馬飛騨・同主膳に斬殺された。

この事件に連座して参政・不破孫一、待読・野崎平八、納戸役・今井栄、近侍・衣笠弥八郎は罪せられた。これ以来、慶頼の治世は朋党の争いが激化し、真木和泉守の党派と村上守太郎の流れを汲む党派の軋轢の中に、藩政は進展し、ついには久留米の人材が尽きる結果となった。

慶応3年10月14日の大政奉還、慶応3年12月9日の王政復古の大号令以来、慶頼は朝廷の令に従って藩政をみたが、政権は引き続き国老・有馬監物を首班とする村上党一派、参政・不破美作、今井栄の手にあった。

翌明治元年1月26日夜、不破美作は小河吉右衛門以下24人に殺された。2月24日には真木党の水野正名が大阪で参政に登用され、藩政を委任されるようになり、今までの国老・有馬監物以下31人は禁錮幽囚された。ここに至り、頼咸襲封当初より一貫して藩政を執ってきた村上党の公武合体派は潰え(久留米藩殉難十志士)、真木党の勤王派が政権を握り、米藩の政体は一変した。

頼咸は明治元年5月1日「皇国一体復古の皇威貫徹心掛くべく、面従腹背の徒は、国政の妨げたるを以って厳科の沙汰に及ぶべき」の藩政一新の令を出し、藩政機構を改革した。

翌2年2月7日、薩長土肥とともに版籍奉還、6月17日、封建制は変じて郡県制となり、久留米藩が設けられると、頼咸は久留米藩知事を命ぜられ、旧禄十分の一を賜った。7月18日、藩知事として帰藩し、久留米城を知政所に定め、高良山座主跡を館舎として、日々通勤して政治を見た。

頼咸の命により、水野正名は、山川招魂社を建て天王山で自刃した真木和泉守以下をはじめ、維新前後の数々の戦役(戊辰戦争・佐賀の乱など)の死者を祀った。

明治4年の辛未の藩難、すなわち領内に潜入した山口藩脱徒の奇兵隊首魁の大楽源太郎を小河真文(吉右衛門)以下の元応変隊(大参事・水野正名によって編成された軍隊で、明治3年12月19日解隊)の者たちが庇護して、反政府の挙兵計画を企てた。

これに対し政府は官兵を派遣(*)して糺断した。この事件に、頼咸は嫌疑を受け、上京を命ぜられて3月10日、弾正台で取り調べを受け、同日謹慎を命ぜられた。なおこの事件で水野正名・小河真文以下の有為の人物があまた捕らえられ、死刑・終身獄以下の刑に処せられて、久留米の人材が多く失われた。(久留米藩難事件)

(*)1871年1月2日、巡察使・四条隆謌少将が兵を率いて日田より久留米を視察に来る。

同年7月15日、廃藩置県により藩知事を免ぜられ、同月25日、華族に列せられ、東京に移住した。
同7年2月、病のため退隠し、家を世嗣・頼匡(よりまさ)に譲った。

同11年6月20日、積年の功労により麝香間祗侯となり、
同14年(1881)5月21日没。享年54。
従三位追贈。墓は東京都渋谷区祥雲寺。

資料:

・久留米市史

・久留米人物誌(篠原正一)

・久留米小史(戸田乾吉)

・筑後久留米有馬藩歴史之旅(篠原盛義)

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