有馬頼永(よりとう)(義源院)

10代

弘化3年(1846)当時、水戸前藩主・徳川斉昭(水戸光圀)は宇和島藩主・伊達宗城と諸大名の人物・器量を論評した折、頼永について次のように述べている。

「有馬筑後守、是は下官度々営中に於ても見かけ、尤も懇に面晤(めんご)致し候べきか。逢い候節はいつもいつも父子一同にて、親はつまらぬ人故咄も致し申さず候べき。筑後は親と違い、余程有志に見え申し候。是は懇意なされ候てよろしき人と存じ候

(「水戸藩史料」別記・下)

天保15(1844) 頼徳が没し。頼永が10代藩主となる。

久留米城内で生まれ8歳で江戸三田邸に移り、
幼くして聡明、佐藤一斎より陽明学を学び、林述斎に師仕し、藩儒・樺島孝継等、又伴読して、よく学んだ。
19歳の時、父頼徳に代わって久留米に10ヶ月ほど帰っただけだが、藩の実情を見聞していたため、襲封時には、すぐに改革に手をつけることができたといわれる。

治世わずか3年だったが、仁慈の心篤く、民を思う善政は士農工商の全領民から名君と仰がれ、25歳で没すると、領民すべてが痛惜した。

当時、藩財政は窮乏破綻に瀕していたので、財政立直しのため、
弘化元年(1844)6月、襲封
弘化元年(1844)7月23日、江戸藩邸に大検令を発し、自ら範を示し、質素倹約の体制をつくり
弘化2年(1845)10月15日、本国領内に五ヵ年の大倹約令を布告し、藩債の返済を据置き、新規調達を止めた。

従来、幕府助役の費用は領民から取り立てていたが、
弘化2年(1845)、江戸城本丸普請手伝を仰せつかると、その上納金10500両は、領民の困窮を思いやり、奥向きの費用や諸役所の雑費を節減し、その余金をこれにあて、領民からは徴収せずに、
「予がこの心を体することあらば、貧者は自ら勉めて人の助力をわずらわさず、富者は余力を以って貧者を救うべし」
と領民を諭した。このようにして、頼永は内には仁慈の君として景仰された。

頼永の襲職とほとんど時を同じくして同年7月、オランダ国王の命を受けた使節コープスが長崎を訪れ、幕府に対し開国を勧告する事件が起こった。

(長崎奉行は、九州諸藩に兵備を厳重にすることを命じた)

頼永は報告に接すると、直ちに近臣 ・石野陸三郎を久留米に派遣し、非常の際には、江戸邸の兵糧米までも国許の用にあてる計画を立てた。これに対し、いささか軽挙にすぎないかとの批判があったが、頼永は「軍備を忘れ太平に浸る世上一般への警世の意味を持つ」旨答えている。

また「長崎聞役」を新設して外国関係情報の収集に努め、藩士(吉見七次郎・吉村多聞)を江戸に派遣して下曽根流砲術を習得させ、鍛工を雇って西洋式大砲を鋳造、久留米城東・柳原でも大砲を鋳立てさせた。
藩財政改革に努力するだけでなく、開国前後の時代にあって、きたるべき時代に備えて、着々と態勢を固めつつあった。

外国艦船が出没していた時勢の中で、
頼永は海防の重要性を認識し、万一の場合に備え、対外政策を考えて兵制改革に手を染めた。
島田丹右衛門・淡河次郎左衛門などを、内外兵法の長所を取り入れた兵制改革の任に当たらせた。この頼永の考えは、次代に幕府・薩摩・肥前に次ぐ久留米海軍の創設となって現れた。

頼永が最も頼みにしていた臣下達、村上守太郎・野崎平八・今井栄らの補佐も大きかった。
彼らは藩内に天保学連といわれた一派を形成して頼永の改革政治を支えたが、頼永の早い死と派内の分裂(内同士と外同士)で久留米藩は維新運動の主流から遠く離れてしまった。

農民は生前から頼永を尊敬し、殿様祭と呼んでお祭り(生き祭り)を行い、その徳を称えた。
明治10年久留米城本丸跡に、篠山神社が創建されると、藩祖豊氏の霊と共に祀られ、
明治44年11月、国家民生の大功労者として従三位を追贈された。

頼永は詩をよくした。彼の至誠の心に生れた詩は、
頼永股肱の臣、野崎教景によって編まれ「思艱斎遺稿」と題されている。
教景は、主君の遺徳を景慕し「感泣涙餘」の一著も著した。

(*)以下の漢詩は横書きで表示しています

『乙己入封 有馬頼永』

  • 四旬行尽三千程
  • 六月薫風帰故城
  • 闔国士民来迎我
  • 一歓一懼此時情

(40日の長い旅路でやっと古里の城に帰ったが、
城頭の若葉が初夏6月の風にそよいでなつかしい。
しかも全藩こぞって自分を喜び迎えてくれるものの、幼くて取るに足らぬ自分の重責をかみしめるにつけ、喜びの中にも不安に心がおののく。)

『述懐 有馬頼永』

  • 賢主四方今在不
  • 東西唯聴常肥侯
  • 中興志鋭雖堪感
  • 祈願何曽期此儔

(注)ここで常肥候とは、水戸の徳川斉昭、肥前候、鍋島斉正等、当時名君と称せられた人々を云う。水戸光圀に私淑し、水戸学風に・・・そのために、後に水戸へ遊学するもの多く、水戸学派が成立した。

『楠公墓下作 有馬頼永』

  • 三過忠臣楠子墓
  • 対公黙誓我誠心
  • 一言欲述延元事
  • 憤意塞胸涙満襟
(注)南北朝時代、摂津国湊川の戦で敗れた楠木正成への思いを述べたもの

『晩夏 有馬頼永』(注:久留米城での詩)

  • 萬木碧深夏過中
  • 水亭保涼米城東
  • 遮眼晩鴉映斜日
  • 薫風吹樹樹生風

『立秋 有馬頼永』

  • 銀漢横天若蒼弓
  • 吟虫声聒夏方窮
  • 千山末見催黄色
  • 先駭西窓一片風

(注)銀漢とは天の川の事

義源公(10代・頼永=よりとう)不世出の英主をもって累世の積弊を受け、主として大倹を行い、身をもって一国に先んじ、厳に華侈(華美ぜいたく)を禁じ、もって国力を復す。国用を経理し、浮費を裁 減し、入るを量り、出すを為すの制、これによりて定れり。 武備を重んじ・軍制を定め・政綱を振ひ・風教をあつくし、大に為す所あらんとす。しかるに享封わずかに三年にして、ついに捐館(死亡)せらる。あに千古の遺憾ならずや。

*)久留米に入国する時、すでに病にかかっていて、伏見から蘭方医:小石元瑞が久留米まで随行し、半年ほど久留米に滞在して治療にあたったという記録がある。

有馬晴姫(晴雲院)

文政3年(1820)薩摩藩主島津斉宣の12女として江戸島津邸に出生。
天保8.4.26兄斉興公の養女となって、18歳で久留米藩世子頼永夫人となる。
明治36年(1903)12月7日没。享年84。墓は東京都渋谷区祥雲院。

夫君より2歳年上だったが、婦徳高く、内助の功が多かった。

頼永は襲封すると藩政改革の第一歩として同年7月23日、江戸の3藩邸に大検令を発布した。
夫人は直ちに絹服を廃して綿服をまとい金銀の装身具をやめて真鍮か竹木製のものを用い、食事は一汁一菜とするなど、先だって質素倹約の範を垂れ、内助の功を尽くした。

夫君同様に孝心深く、舅頼徳に仕えて孝道を尽くし、舅君が蜜柑の臭を嫌うため、自分も好物の蜜柑を絶ち、没するまで蜜柑を手にしなかった。

頼永は弘化2年6月26日、愛妻晴姫を江戸に残して藩主として初入封をし、一意専心藩政の改革に当ったが、再び愛妻と会うことなく、翌3年7月3日26歳で没した。
訃に接すると晴姫は黒髪を絶ち晴雲院と号し、法華経を筆写し、又これを一字一石に写し、仏像数体を彫刻し、これらのすべてを江戸祥雲寺の頼永の遺髪塔側に埋め、ひたすらに追善した。

晴雲院が初めて久留米に入ったのは
夫君が没して18年後の文久3年2月、44歳の時だった。
以後9ヵ年間、市の上別邸に留まり、梅林寺の夫君の墓前に心ゆくまでの追福の祈念を捧げるのをよろこびとした。和歌をよくしたほか、琴の妙手、文にも秀でた。
久留米に初めて入る旅では和歌を交えた旅日記の紀行文も遺している。
そのほか茶道・生花・押絵・絵画の諸芸に秀で、絵画は特に花卉類を得意として描いた。

資料:

・久留米市史

・久留米人物誌(篠原正一)

・久留米小史(戸田乾吉)

・筑後久留米有馬藩歴史之旅(篠原盛義)

・久留米路の旅情(田中幸夫)

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