有馬頼貴(よりたか)(大乗院)

8代

【延享3年】1746年4月2日-【文化9年】1812年正月23日。享年67

延享3年(1746)4月2日、7代藩主・頼徸(よりゆき)長男として出生。幼名は定五郎。
天明4年(1784)正月23日、8代藩主となる。

治世29年(天明~文化)の事業として特筆すべきは、藩校を設置して教学を盛んにしたことである。先代頼徸は天明3年(1783)2月に高山畏斎を登用して学問所を開かせたが、まず頼徸が逝き、次に畏斎没して中断せざるを得なかった。

頼貴は父の業を再興し、天明5年(1785)2月、 城外両替町に講席(講談所)を設立して9月20日に開講した。そしてそれを天明7年(1787)5月、雁塚門内の町奉行所跡(今日の久留米地方裁判所の所)に移して「修道館」と名づけた。ところが8年後の 寛政7年(1795)に類焼し、藩学はしばしば中断された。

この頃、天明5年(1785)以来江戸に出て刻苦勉励して細井平州(wikipedia)に学び、ついに久留米藩第一の儒者と称せられるようになっていた樺島石梁が12年ぶりで帰国した。石梁に藩校再建の命が下った。

石梁は、御原郡井上村(現・小郡市立石)の豪農・樋口甚蔵に黄金300両を献金させて、追手門内(現明善高等学校の地)に再建し「明善堂」と名づけて寛政8年(1796)12月9日に開講した。

以来、藩校・明善堂は久留米藩教学の中心として、この地に栄え、幾変遷ののち今日の明善高等学校となって、その伝統を伝えている。

なお、頼貴は武道をも奨励し、これより久留米藩の文武大いに賑わうに到った。また民政にも心を用いた。

寛政元年(1788)から度々の大雨洪水、加えて虫害もあり、連年の凶作で寛政5年(1793)1月、餓死者4421人を出したので、1日に1合づつの救助米を出して救済した。

寛政4年(1792)、長崎奉行・平鹿氏の推薦で、佐藤信綱を引見し、筑後川治水の事を問い、信綱家伝の頭牛の製法によって改修工事をした。 国老有馬播磨は、信淵の農業改良法を採用して、農事を改革督励した。

高山彦九郎が久留米に来て、森嘉善邸で自刃したのは、頼貴治世の寛政5年(1793)6月だった

また、 頼貴は力士 小野川才助を抱え、また犬を諸国より求めるという、相撲好き、犬好きの殿様としても有名だった。

文化9年(1812)正月23日、江戸赤羽藩邸にて没。享年67。 墓は東京都渋谷区祥雲寺

・久留米小史巻4-13葉・有馬義源公15P

大慈(七代頼徸:よりゆき)・大乗(頼貴)・大良(九代頼徳)三公 も奢大(おおいにぜいたくする)の風を継承せられ、諛神侫仏(ゆしんねいぶつ:神仏におもねりへつらう)放鷹・ 猿楽等に国財を費し、士族の禄を削り、商估(商人)の財を課し、 負債夥多(おびただしい)、その弊いかんともすべからざるの極に 至れり。

人物誌余禄

石橋石梁の記した頼貴の銘文には「公は天資仁厚にして、恭謙下に接す。その政を為すに、少しも自ら専らにせず。賢を任じ、能を使ふ。賞を重んじ、罰を軽くす。以下略」とあり、父頼徸(よりゆき)・祖父則維(のりふさ)のような峻烈な性格はなく、平和的おだやかな性格の主君であったといえる。

また、彼の時代、幕府は11代将軍家斉の治世で、老中主席の松平定信がよく将軍を補佐して、その良い政治は「寛政の治」と称せられて、徳川時代を通じて最も平和な時代であり、江戸の繁栄はめざましかった。

寛政・享和を経て、文化・文政時代になると、江戸の文化は爛熟期を迎え、化政時代といわれた。
化政時代は、世間一般は平和に慣れ、享楽を追う退廃の風が甚だしく、学問・文学・美術・芸能は特殊な発達をした。

頼貴はこの寛政・享和・文化時代を過ごした。 松平定信は教育に留意し、昌平坂学問所(昌平黌を幕府の学校とし、朱子学を正学とする文教政策をとったが、頼貴はこれに即応して、 藩校明善堂を新設した。一代の碩学・樺島石梁が教授に任ぜられて久留米藩文教の中心人物になると久留米藩の文運はにわかに隆盛に赴いた。

頼貴の正室は長州の松平大膳太夫重就の息女・勢代(与とも記す)だが、流産以来、子ができなかった。まだこの時世子だったが、側室に(米府年表には10人の名が上げられている:・・子を産んだ女性だけで10名)男女25人の子があったという。

長子、定之丞の狂乱(生来の凶暴性のため、廃嫡されて久留米城に幽閉されていたが、この間に用席詰の端山猪兵衛を鉄砲で撃ち殺した 。

長子の廃嫡に代わって長作君(字は東作君、諱は頼端)が嫡子となったが、文化元年(1803)12月22日(実は16日)26歳で没し、 頼端の嫡男新太郎が父の没後に世子に立ち、頼貴の後を継いで第9代藩主頼徳(よりのり)となった。

角力好み

寛政3年11月15日から江戸本所の回向院で興行した大相撲の番付を見ると、(当時、横綱の制がなく、大関が横綱格であった。)東方に大関(久留米)小野川才助・関脇(伊予)陣幕島之助・西方大関(仙台)谷風梶之助・関脇(雲州)雷電為右衛門。他に東方の幕内に久留米藩のお抱え力士が5人もいることを見ても、時の久留米藩主頼貴の角力びいきが判る。

犬好み

則維の時、綱吉から犬を賜ったことで愛犬家になり、参勤交代時の行列の曳き犬は、それ以後、(よりゆき)、頼貴、頼徳と4代にわたり続け られたが、特に頼貴は犬を好み、「犬を愛し 、諸国より購入する。且、和蘭国にも注文せられたり」(久留米小史)と書かれている。

頼貴の増上寺火の御番のこと(有馬火消し

将軍家の霊廟がある上野の寛永寺芝の増上寺を火難から守る「火の御番」の役目は、大名の華やかな名誉だが、大役でもあった 。
大体において、上野の寛永寺の火の御番は加賀の前田家に、芝の増上寺の火の御番は久留米の有馬藩に下命された。いざとなれば、藩公自ら陣頭に立って、常備の火消し人足を指揮して火を防いだ。久留米藩の火の御番の始まりは、久留米3代藩主・頼利の時であり、こ れから歴代の藩主が下命を受けた。

頼貴は治世29年間で、増上寺火の御番の役に当たること8回で、ほぼ一代を通してこの大役についた。常に4、50名の火消し人足が藩邸にいて、その人足はすべて選りすぐった屈強な大男ばかりだったという。
いざとなると、殿様は華麗な火事装束に身を固め、馬上の人となって勇ましく駆け出す。その後ろを家臣と人足たちが増上寺に向かって走る。この勇壮さが江戸っ子の気質に合うので、有馬火消しは江戸名物となった。

頼貴は寛政4年(1792)と文化3年(1806)の2回、火の番の働きがあっぱれとして 褒詞を頂戴した。 特に文化3年(1806)の場合は、国元の久留米では、家中すべての者が家老宅に惣出仕して、その褒詞を喜んでいる。

資料:

・久留米市史

・久留米人物誌(篠原正一)

・久留米小史(戸田乾吉)

・筑後久留米有馬藩歴史之旅(篠原盛義)

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