数学の大家

頼徸(よりゆき)

幼年時代からの侍読だった湯川東軒伊藤竹里の補導を受け、学究心深く、特に数学に傾倒した。 日本数学中興の祖、関孝和の第三伝の山路主住を師とし、関流の奥義を極め、同門高弟7人の筆頭格という大家になった。宝暦12年に刊行を始め、40種に及ぶ数学書を著した。
特に明和5年(1768)著の「方円奇巧」は円の研究で世界に誇るべき内容の数学書である。

彼の最大の功績は「拾璣算法」5巻を明和6年(1769)に刊行し、関流数学の秘伝(点竄代数)と弧脊術(円の研究)を公開したこと。

当時の数学界は、重要な研究は、各流派に秘伝として高弟のみに教えたもので、これを公開した大英断、これは大名の権力と財力によってできたことである。

この書は南筑米府侍臣豊田光文景の著書名で序文は明和3年の日付、3年後の明和6年(1769)に刊行された。関流数学多数の研究中から精粋150問を集めた、当時の日本の数学としては最高のもので、当時の西洋の数学に比べても優れていた。

この2書の刊行は、数学の普及向上に非常に役立ち、数学研究家はこの書物を最高の教科書として重要視した。

明和6年(1769)には山路主住の高弟、関流第四伝の藤田貞資を算術師範として江戸に召抱えるが、藤田は当時名人として名高く

頼徸は自分が一流の数学者であったばかりでなく、藤田のような一流の数学者を召抱えて、その生活を保障し、研究をさせて教育や著作をなさせ、日本数学界に貢献させた。