有馬よりゆき(よりゆき)(大慈院)

7代

【正徳4年】1714年11月25日-【天明3年】1783年10月23日没。享年70

正徳4年(1714)11月25日、6代藩主頼維の第5子とし て出生。幼名は左近、諱は則昌、のちよりゆきと改め、字は 其映。号は穐風閣・扇軒・潜淵子・林宗庵。

享保3年(1718)5月、世子となり、享保4年(1719)7月6日、則維の隠居で 7代藩主となる。治世は、11代藩主中最も長い55年(享保 -天明)間だった。

よりゆきは、関流算学の大家として、日本数学史上に特筆さ れ、その功績によって明治44年(1911)11月15日、従三位を追贈された。

学問教育を重んじるよりゆきは、合原窓南を再登用し、その教えを聴き儒学も深く学んでいたが、天明3年(1783)2月、民間から高山畏斎を儒官に登用し、初めての藩立学文(問)所を両替町に開かせ、藩士へ学問を奨励したので晩年頃には、学者が育ち、民間にも広津藍渓らが育っていた。学問だけでなく天明2年(1782)11月、城内に家中武芸稽古所を建てて、武芸の振興も忘れなかった。

宝暦元年(1751)12月、羽犬塚町大火を機に、若津港を開き、若津の 人々に恩人として神に祀られるに至ったが、襲封以来の凶作がつづき 、特に享保17年(1732)には餓死者1万1198人を出す大飢饉が起り 、前藩主以来の窮乏した藩財政は一段と窮迫していった。

寛延2年(1749)5月23日:五穀神社の創立【御祭神:豊宇気比売神 (相殿)稲次因幡正誠公】神殿は大庄屋中より、拝殿は惣御郡中より寄進、社地は藩主よりゆき。境内池に掛かる石造反橋も文化3年(1806)総郡中に寄進させた 。

よりゆきは、内外の国用を節し、財政整理に大いに努めたが 、惣奉行中井此面の失政により、宝暦4年(1754)3月、農民10万が蜂起する騒動(宝暦一揆)が起きた。

天明3年(1783)10月23日没。享年70。 墓は京町梅林寺

*)若津の少将祭:宝暦元年12月、羽犬塚町に大火があったのを機に、同町の遊女をすべて若津に移して若津港を開いた。筑後川河口の三潴郡向島の低湿地に堤防を築き、若津(現、大川市若津)と称し、焼け出された羽犬塚の遊女すべてをこの新開地に移し、長崎・口之津方面などの航路を開いたために、若津はまたたく間に一大要港として繁栄したので、この地の人たちは藩主が没すると若津開拓の恩人と仰ぎ、同町祇園社内に祀り、毎年6月23日、少将祭として祭典を行った。安永元年12月15日に少将に任官したので少将様と呼称した。
*)この祭りの前夜祭が「雲助道中」

熱海と久留米藩主:6代則維と7代よりゆきは、熱海温泉を愛好していた。
よりゆき公の資料「熱海湯治の記」(宝暦8年)には大名が湯治に江戸を出るための手続きが大変面倒だったことが書かれているという。湯汲坂を少し登ったところに鎮座する湯前神社。ここの鳥居と参道脇の石灯籠2基は、よりゆき(よりゆき)が、宝暦8年(1758)に奉納したもので、「奉献納石華表 安永庚子九月中旬久留米佐少将源朝臣よりゆき公」 の文字が刻まれているという。関東大震災でも倒れなかったとか。
サイト「晴さんの悠々自適in湯河原」の中(熱海の湯前神社)に画像あり

大慈(よりゆき)大乗(頼貴)大良(九代頼徳)三公 も奢大(大いにぜいたくする)の風を継承され、諛神侫仏(ゆしんねいぶつ:神仏におもねりへつらう)・放鷹・ 猿楽等に国財を費し、士族の禄を削り、商估(商人)の財を課し、 負債夥多(おびただしい)、その弊いかんともすべからざるの極に 至る。
高良大社、「一の鳥居」の額字は、東京上野寛永寺門主の筆によるもので、安永2年(1773)7代藩主有馬よりゆき(よりゆき)が寄進

資料:

・久留米市史

・久留米人物誌(篠原正一)

・久留米小史(戸田乾吉)

・筑後久留米有馬藩歴史之旅(篠原盛義)

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