有馬則維(のりふさ)(梅厳院)

6代

【延宝2年】1674年3月3日-【元文3年】1738年4月1日没。享年65

享保14年(1729)7月6日、隠居するまでの24年間の治世は正徳令の発令、久留米藩三大農民騒動の1つ享保百姓騒動(一揆)などと多彩だった。

治世の初めは5代将軍・綱吉の時代で、その時勢に従い、自ら儒を学び、学を好み、合原窓南湯川東軒(通称丙次)・伊藤竹里(通称長準)の儒者を招いて、米藩学問の興隆に心を向けた。

正徳2年(1712)4月、草野又六を普請総裁判として床島堰 (堰のながれ)・江戸用水を築造、完成した。

前藩主の頼旨時代、国老の手にあった政権を取り戻すため政治機構を大改革し、用席を設け、上士・中士の人材を参政に任じ、藩主自ら親裁する制度にし、正徳3年(1713)、湯川東軒・合原窓南の手による正徳令を発布した。

しかし、参観行列に将軍家下賜の犬を曳き行くなど、則維は華美贅沢を好み、また襲封以来、毎年の天災地災のため不作飢饉がおこり、国用窮迫に陥り、寵臣本荘主計久米新蔵を重用し、
内には世嗣・則昌を廃して愛妾の子・宅之進を立てようとする世嗣廃立問題を起し、
外には本荘主計を郡方総支配役に任じ、夏物成に三分の一上納の苛税を令して、上三郡の百姓5700人が府中(現 御井町)まで押し寄せる騒動(享保一揆)を引き起こした。時に享保13年(1728)8月。

世嗣廃立問題も百姓騒動も、国老・稲次因幡正誠(まささね)の勇断によって治まった。

享保14年(1729)7月6日、家督を則昌(7代賴徸)に譲り、高輪の新御殿に移ったが、家臣に「前太守様」と呼ばせて、新藩主・賴徸の背後で隠然と権力を保った。享保20年(1735)1月10日剃髪して翁と称し、元文3年(1738)4月1日没。享年65。墓は東京都渋谷区祥雲寺。1

則維は、途絶えていた高良神社御神幸(大宰府から勅使が派遣され、少貳、大友、菊地、島津の4家、九州一円の国司、郡司、1000人余が参加する大きな祭事)を3年に1度の御神幸として再興させた。

梅厳公(則維)に至り、祖宗の法を変じ、風俗浮薄、文治を好むの名ありて、儒者、湯川東軒・伊藤竹里等を聘し、法令制度を制定されたが、多く表面のみにて、政治の大綱ゆるみ、上下奢侈、財用匱乏(とぼしい)、ついに聚斂(しゅうれん)(厳しく税金をとり立てる)を施すに至った。

資料:

・久留米市史

・久留米人物誌(篠原正一)

・久留米小史(戸田乾吉)

・筑後久留米有馬藩歴史之旅(篠原盛義)

・久留米藩史覚書(古賀幸雄)

home