有馬頼利(よりとし)(霊源院)

3代

【承応元年】1652-【寛文8年】1668年6月24日急逝。享年17

承応元年(1652)出生。父忠頼の不慮の死により明暦元年(1655)7月3日、4歳で襲封。幼年のため幕府は翌2年3月より1ヵ年、国政目付2人を派遣したが、国老有馬監物同壱岐岸刑部の3人がよく国政を司った。

この国老たちの補佐よろしく生長した頼利は、仁君の名が高く、その治世14年(明暦元年-寛文8年)は、泰平だった。

名土木奉行丹羽頼母もいて、寛文4年には五庄屋が命をかけた大堰・長野堰を完成するなど、藩内の水利治水を整備した。

寛文5年(1665)2月、14歳で従四位下・侍従兼玄蕃守に叙任。
この年は幕府がキリシタン禁圧を定め、絵踏の制度を始めた年だった。幕府より宗門改めの御目付・下曽根三十郎・岡部正左衛門が久留米に下向して領内巡見し、人別誓詞(延宝6年より人別帳寺証文)、すなわち戸籍簿の初めともいえるものができた。

先代・忠頼の時に招聘された菊池東匀が去ったあと、山崎闇斎門下の真名辺仲庵(のち藤井懶斎と改める)を藩医、藩儒として300石で招聘し、藩士子弟に学を授けさせた。また江戸藩邸には儒者で兵法家の長沼宗敬を350石で招聘し、自身も家臣と共にその教えを受け、米藩の学問を興した。

寛文8年(1668)4月、芝増上寺の火の御番を仰せ付けられた。(有馬火消しのはじまり

寛文8年、将軍の内命により、水戸光圀の孫である松平頼重の女糸姫と婚姻したが、蜜月4ヶ月で寛文8年(1668)6月24日急逝。享年17歳。墓は東京都渋谷区祥雲寺。

「霊源(三代頼利)・慈源(四代頼元)・昌林(五代頼旨)三公は、いささか弊事は生ぜしも、淳厚の風おとろへず。」

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三代藩主頼利は仁君であったといわれる
「久留米小史」には「公の性は仁厚。幕府に接する恭順。かつ臣下を御する憐恤(情をかけて物を施す)と賞賛している。

その逸話「ある時、近侍の者が公の愛する香炉を誤って破損した。近侍は罪を乞うたが、公は(万金の器であっても、人間一人の命には代えられない)と笑って済ました」という。

頼利は寛文8年(1668)6月24日、僅か17歳で江戸藩邸で急死した。公が急に病むと聞いた藩邸の臣下はすべて殿中につめきって憂い、葬儀の日まで家に帰る者は一人もいなく、その死を悲しんだ。

三代藩主・頼利の身替り巷説

頼利の襲封と急逝について次の伝説がある。

二代藩主・忠頼が小姓に弑された時、4歳になった嫡子の松千代は同船していた。そして松千代も船中で急死した。松千代急死の事は特にひた隠しに隠された。国老・岸刑部の敏速な働きによってお家は安泰、間もなく松千代襲封の幕府の許しは出た。

そこで松千代の代わりが必要となった。弟に源四郎(後の四代藩主・頼元)がいるが、わずか1歳。そこで極秘のうちに松千代の身替りに仕立てられたのが、御原郡用丸(もちまる:現・小郡市)の大庄屋・高松家の子であった。この子は松千代と同じく4歳で、容貌は松千代にそっくり、人品は高貴であった。いかにも大名の子にふさわしかった。この子が三代藩主・頼利であるという。

今は亡き実の松千代の死を悲しんでいた生母・養寿院は、ひそかに用丸の大庄屋・高松家の庭園の一隅に、松千代の霊を慰める祠を祀った。今日でもその小祠は老松神社と称して、高松家庭園に私祭され、その折に、下し賜うたという短刀が家蔵されているという。

僅か17歳で急逝した頼利の死については、またこういう巷説がある。

由緒ある有馬家の血統に庶民の血の混じるのを忌み歎く家臣が人知れず殺害したという。

高松家系譜(「久留米藩の旧家系図」第五集に収載)末記の「高松家秘伝」は頼利身替り伝説に関係ありそうな話である。

「徳川家イズレノ年代ナルヤ詳ニセズトイヘドモ、高松家ニ関シ、左ノ如キ秘伝アリ。 久留米藩主有馬某候某年江戸へ参観交代ノ砌、豊前黒崎ヨリ出航ノ船中、一行ニ扈従セル髪結某、世嗣タル幼君ヲ弑ス。此事発覚セバ君家ノ一大事トテ上下驚駭措ク処ヲ知ラズ。仍チ密議シテ領内大庄屋中ヲ物色シテ、然ルベキ子息ヲ身代リニ請受ケ、以テ急ヲ救ハント決ス。偶々高松家ニ幼君ト同年ニシテ人品卑シカラズ、大名ノ嗣子ト云フモ恥シカラザル一子アリ。懇望シテ之ト取替へ、有馬候ノ世嗣トシテ江戸ヘ連レ登リ、幸ヒニシテ事無キヲ得タリ。」

有馬糸姫

讃岐国・高松城主・松平頼重の息女で、水戸光圀の孫に当る。
寛文8年(1668)2月、三代藩主・頼利(17歳)に嫁した。蜜月4ヶ月の後、頼利急逝。糸姫は16歳だった。
夫の死を深く悲しみ、

きのふまで千筋になでし黒髪を今一すじにおもひきるかな

みじか夜の月は枕に残れども消えにし人の影はとまらず

の悲愴な和歌を詠じて落飾した。切り落とされた黒髪は束ねられ、老女これを白木の盆に載せて、泣く泣く国老・有馬左門の前に出した。左門も余りのいたわしさに、仰ぎ見ることが出来なかったと伝えられている。

以来、江戸小石川・水戸邸に住み、頼利の霊に仕えて清操を全うし、元禄15年(1702)正月5日没(49歳)。墓は鎌倉・英勝寺。

(英勝寺:浄土宗・鎌倉に現存する唯一の尼寺で、
代々、水戸家の息女が住職を務めたので「水戸家の尼寺」、「水戸御殿」として有名)

元禄年間、伊予松山藩士・大高清介の妻は、山城国淀の城主・稲葉氏の命によって「唐錦」八巻を著わし、糸姫の貞操を詳記した。

吉田松陰は「女誡訳述」に、その貞節を「筑後久留米の国主(21萬石)有馬玄蕃頼利君の後室は、17歳の時、夫君に別れ給ひし故に、改めて舎弟・頼元に嫁せられ候へと、各々申しすすめければ、歌をもて答えられき、其歌に、 ながらへてありつるほどを浮世とぞおもへばのこる言のはもなしと斯く詠じ給ひて、一生貞烈を改められず、鎌倉の英勝寺と云う尼寺に住み給ひき。此の歌、仙洞御所に聞えければ、圓浄法皇御製 ことの葉のながくみじかき身の程をおもへば濡るる袖のしらつゆ と遊ばしたりとなむ。」と記している。

資料:

・久留米市史

・久留米人物誌(篠原正一)

・久留米小史(戸田乾吉)

・筑後久留米有馬藩歴史之旅(篠原盛義)

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