有馬火消・水防対策

有馬藩が芝増上寺の「火の御番」を仰せつかった理由

として次のような説ががあるといわれています。

有馬藩 上屋敷は赤羽橋を渡った対岸にあり、増上寺には、この橋を渡って赤羽口より参内できた。

また、有馬藩上屋敷内には水天宮社を祀り、小高い丘に、当時、既に火の見が設けられていたという。火の見は、江戸市民に「高いもんだ有馬の火の見」と評判になっていたという。

*)「怪猫有馬御殿」(大映京都 昭和28年 入江たか子・主演)では、有馬屋敷内にある「日(火) の見」が、映画の初めから何度か出てきます。

**********

有馬藩は、徳川幕府の4代将軍・家綱の時代、寛文8年(1668)4月、3代藩主・頼利が芝増上寺の火の「火の御番」を仰せ付けられて以来、11代藩主・頼咸の時代、文久年間(1860年代)まで代々その職に任じられた。徳川将軍家の霊廟がある上野の寛永寺と芝の増上寺を火難から守る「火の御番」役は、大名の名誉だが、大役でもあり、藩からの臨時出費を必要とした。

上野の寛永寺の火の御番は加賀藩・前田家、芝の増上寺の火の御番は久留米藩・有馬家に下命されていた。
「いざ火事」となれば、藩公が陣頭で火消し人足を指揮して火を防いだという。

有馬頼貴〔8代藩主:延享3年(1746/4/2)出生、治世29年(1784-1812)〕は、増上寺火の御番の役を8回、ほぼ一代を通し、この役につく。
選りすぐりの屈強な大男を40-50名、火消し人足として常に藩邸に置き「火事!」となれば、馬上には華麗な火事装束の殿様・家臣・人足たちが増上寺に向かって走る。その勇壮さが江戸っ子気質に合うので、有馬火消しは江戸名物となる。

頼貴は、寛政4年と文化3年の2回、火の番の働きがあっぱれとして褒詞を頂戴したが、特に文化3年の時は、国元の久留米では、家中すべての者が家老宅に出仕して、その褒詞を喜んだという。
*)当時の消防は、周囲を破壊して延焼を防ぐ方式(破壊消防)が主だったらしい。

参考

江戸時代、約265年のうち、江戸では火元から長さ15町(約1636m)以上焼いた大きな火事が96回あった。3年に1回は大火、7日に1回は小火(ぼや)があった。

当時の建物は木造で竹と紙で造られていたので、一度ついた火を消すことは大変で、風が吹く日に火事になることが多く、ちょっとした火の粉でも簡単に大火事に発展した。

(以上はウィキペディアによる)

江戸城まで被害が及んだ明暦3年(1657)の大火を機に、幕府は4人の旗本に命じて防火体制を整備させた。大岡忠相はその1人で、木造家屋の密集した町人域の防火体制つくりのため、享保3年(1718)には町火消組合を創設、享保5年(1720)、8月7日「いろは四十七組(のちに四十八組)」の町火消組織に再編成した。

新門辰五郎:鳶職人、火消し組頭として活躍し、立花藩と火事場での喧嘩(翌日、単身立花屋敷に乗り込む)でも名を上げたが、有馬火消との火事場での喧嘩で十数人の死傷者を出し、辰五郎は罰を受けて人足寄場送りになったという。体は小さかったが、義侠心にも富み、人望が厚く、盛期には手下3000人とも。また、勝海舟、慶喜などとの関係もあり、西郷隆盛(明治政府)と勝海舟(幕府)の江戸の明渡し交渉が不調に終わった時の対応策として、江戸を焼き払う準備をする、清水次郎長との面会など、多くのエピソードが残る

久留米での消防

おのずから久留米での消防施策にも熱心に取り組み、郡部行、町奉行を中心とする武家火消しの他に所定の町人で組織する町火消が生まれて水火消防に従事するなど、有名な有馬火消が生まれた。

藩政時代、次のように水火消防の定めがあったらしい。

久留米城下又は城下町出火の際は、防火のため
郡奉行は下代と寄所番人を連れて御郡方へ駆け付け、
町奉行は組頭と足軽を連れて消防夫を指揮して消火に当たる。

城郭内外の役所、学館、社寺、制札場、番所等付近の火災の折は、要所に所定の町夫を配置して警備に当たらせた。

水防対策

*)筑後川を抱えた久留米藩は、藩政時代から水防対策にも積極的に取り組んでいたようだ。

筑後川筋の洪水の時、小森野川手番所で測定する水位が

洪水被害があった場所は、町奉行が検分し、惣奉行へ申し出て粥米を受取り、水災害を免れた町人は粥米を供出させ、もし危難に及んだ時は、救護舟の準備をさせたりもしたようだ。

明治以降の消防

しばらくは旧藩時代の制度にならって町火消があったようだが、明治初年には、統制のある私設消防組の組織ができはじめた。

明治維新前後の消防事情については、以下のような古老の話が残っている。

「藩政時代、久留米市街から出火した際は、市内八掛の別当が消防夫の指揮をしていた。道具は昇、灯火、はしご、トビ口、、箱釣瓶、張籠などだったが、豪胆で敏捷に活動して消し止めの成績が最も優れていたのは瀬の下町で次が通外町という評判だった。

洗町の消防夫はお船手辻三太夫氏の配下で、いずれも掛矢と「かがす(碇綱)を携え、燃えている家屋の柱にその綱を結びつけ掛矢で礎石を打外して綱で引倒すという要領が良かったという。

明治時代になって初めて、統制のある施設消防組を作ったのは通り町だったろう。当時の戸長、星野武平氏などは、もっともその事に熱心に力を尽くしておられた。
士族連中で他よりも早く消防隊を組織したのは床島小路だったようだ。
その頃、火消の仕事を町屋の人々にだけ迷惑をかけるのは気の毒だ。四民平等主義の精神に適うためにも士族が消防夫として活動するべきだといって床島小路の飯田源兵衛という人などが奔走、尽力していたようだ。こんな歴史があったためか、後年 公設消防組ができた時には床島町の士族・石井覚助氏が初代組頭に推された。

1)軍隊的士族消防組・2)新進気鋭の町人消防組・3)伝統的消火技能に秀でた江戸火消気質の義勇消防組

明治11年2月、初めて、久留米警察署内に火見楼を建築した。

(久留米消防の沿革:久留米消防本部より頂いた資料から引用)

久留米消防本部

home