2代
【慶長8年(1603)】1603-【承応4年】1655年3月20日。享年53
慶長8年(1603)丹波国福知山城に、豊氏の二男として出生。母は徳川家康の養女連姫で、家康はその誕生をよろこび、自ら吉法師と名づけた。慶長18年(1613)10歳の時、将軍に謁して、殿上で加冠(元服)の式を挙げ、従五位下、兵部少輔に叙任し、将軍秀忠の一字を賜って忠郷と名のり、また忠則とも称し、のち忠頼と改めた。
まだ世子だった寛永14年(1637)11月、島原の乱が起こると直ちに出陣し、後より来た父豊氏と共に久留米藩軍を指揮して功を立てた。同19年(1642)11月5日襲封。
島原乱後、取締りの幕府命令はあるが、極端なキリシタン迫害は見られなかった。
*)島原の乱後の逸話:
寛永19年(1642)、高良山に『高良山縁起』を寄進、大猷院殿廟を建立(徳川家光の霊を祀る)、御仏殿料百石を寄進した。
正保元年(1644)、異国船が長崎に入港し、長崎奉行より出兵をうながされた時、栗生弥右衛門を長崎奉行のもとに遣わして善処し、翌年、海軍を起して住吉・榎津を基地とした。
正保4年(1647)、領内の本願寺西派全部(一向宗)(真宗)を東派に転宗を命じ、従わない者は追放するなどの厳しいこともあったが、林羅山の推挙する菊池東匀(とういん:林羅山の高弟、米藩官学の祖と称する)を500石で久留米に聘し、藩士に儒学を教授させること7年、すなわち米藩の文教興隆の基を開いた。
また、丹羽頼母を普請奉行として、治水・土木の事業をなし、承応4年(1655)3月1日には領中法制書を出して治世の基範を示すなど藩治に心を用いた。
承応3年(1654)、「一の鳥居」とも呼ばれる高良大社石鳥居を建造。(国指定重要文化財)・北野天満宮の社殿を改築
承応4年(1655)3月20日、参勤の途中、備前塩田浦の沖の船中にて、小姓組の兄弟二人に弑された。享年53。墓は京町梅林寺。堀江三義・岡村宇兵衛・猿木孫次郎・関七郎右衛門・石井勘十郎5人が殉死。
参勤の途中、不慮の死を遂げた二代藩主忠頼の14年間(寛永19年~承応4年)の治世を、戸田乾吉はその著「久留米小史」に「英傑の資を以って余烈を継承せられ、精神を治道に励まれ、能く官吏に委し。民政を重んじ、法令厳粛、財用豊富、文武の実行われ、政治の大綱張れり。惜哉、賊手に罹り、中道にて 薨ぜらる」と評している。しかし、藩祖、父豊氏の戦国末期の櫛風沐雨の労を経験せず、春風駘蕩の幸せの中に成長したためか、性格に奔放にして己を押さえることの出来ない疳癖に近い激しいものがあって、臣下に死を賜うこともしばしばであった。小姓の兄弟二人のために不慮の死を遂げたのは一にこの性格の禍であった。
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刑部は事が起ると直ちに、塩田浦停泊中のもろもろの船に使の者を出し、 「中務大輔は、当沖合で漁をなすから出船をしばらく延ばされたい」と伝え頼み、わざと大がかりの漁をやった。こうして、それとなく主君の首と海に投じた二人の小姓を探したが見つからなかった。大がかりの漁とは、この凶変が世間へ知られるのを防ぐ手段であった。
船は事なげに大阪に着いた。
刑部は直ちに大阪城と京都におもむき、城代及び所司代に主君が参勤の途中、船中にてにわかに発病して急死したと届けをなし、遺骸は江戸に送るものか、久留米に還すものかの伺いを立てた。
京都所司代は久留米に還すことを命じた。 刑部は柩を護って豊前大里に船を着けた。急をきいて迎えに来ていた国老二人に柩を渡し、自身は直ちに江戸に急行し、主君の喪を幕府に報告した。間もなく幕府から、松平伊豆守信綱を通じ「中務、東覲、故国を発し、途上にして、病を得たり。不幸にして起たずに至る。実に哀れむべし。況んや先世以来、忠直順正なるをや。松千代なお幼なり。汝ら宜しく一藩をして、之を保育せしむべし」(久留米小史)の丁重な悔みさえ添えたお家安泰のことばを頂戴して、刑部は帰国した。
二人の国老に護られて久留米城に帰った柩は、4月2日、梅林寺に葬られた。
主君の跡を追うて堀江三義・岡村宇兵衛・猿木孫次郎・関七郎右衛門・石井勘十郎の五人は殉死。
*)また、忠頼の代、大乗院稲荷神社は豊氏の移封の際丹波の国から現在のブリヂストン久留米工場敷地内に遷されていたが、平成13年(2001)、この地に遷された。
高良大社「一の鳥居」 (忠頼の寄進によるもの)
・久留米市史
・久留米人物誌(篠原正一)
・久留米小史(戸田乾吉)
・筑後久留米有馬藩歴史之旅(篠原盛義)