有馬豊氏(とようじ)

藩祖・初代

【永禄12年】1569-【寛永19年】1642年9月30日没。享年74

永禄12年(1569)、播磨国三木郡満田城に有馬則頼の第二子として出生。寛永19年(1642)9月30日没
享年74歳。墓は京町梅林寺。近侍の北川正貞と馬屋組頭村上常清は豊氏の生前の徳に感じて殉死。

幼名は萬助。少壮の時より父に従って各地に転戦
文禄元年(1592)24歳、秀吉の朝鮮出兵に手兵200人を率いて肥前名護屋に出陣。同3年(1593)従五位下・玄蕃頭となり、翌4年(1594)8月、遠江国城東郡横須賀3万石を領した。

慶長3年(1598)8月に秀吉が没すると、父則頼と共に家康に属し、翌4年(1599)正月、家康の命で大阪の備えとして淀城を守る。また家康は、豊氏を徳川家御伽衆として機密に参与させた。

慶長5年(1600)6月、家康の養女連姫を豊氏の妻とする。同年7月家康の上杉景勝征討軍に父と共に従い、次に関が原の戦いに功を立てた。同年12月、家康は父子の功を賞して、則頼は有馬家旧領の摂津国有馬郡三田2万石に移封され、豊氏は丹波国福知山6万石を与えられて、居城を福智山に移した。慶長7年(1602)7月28日、父則頼が没するとその封を合わせて8万石を領した。

豊氏は築城土木の術に詳しかったのか、

慶長16年(1611)3月、禁裏造営の議が起きたとき、関が原役後の事であり、幕府役人及び諸侯中には造営中止の意見もあったが、豊氏は朝廷崇敬の大義を説き、所領8万石の身ながら、軍役高11万8千4百石を率先して献上したので、幕議はついに禁裏造営を決定したという。

慶長19年(1614)11月、冬の陣には天満口を攻めて功あり、12月に東西両軍和議が成立したが、豊氏はその和議条約の一つである大阪城の塁壁を破壊し濠を埋めることを、池田忠継・森忠政他2人と共に命ぜられた。これら5人は当時天満5人衆と称せられた。特に豊氏は5人衆と密議を凝らし、秀忠将軍の陣営に行き、安藤対馬守・土井大炊頭を通じて、「秀頼を四国または大和・河内・和泉に移すこと」を申し出た。秀忠はこれに従い人を遣わして秀頼・淀君に通じたが不調に終わる。

家康は大阪方に通ずるのではないかと疑っていたが、夏の陣(1615)で首級57を挙げ功を立てた。この働きによって疑いが解かれた。

元和6年(1620)12月8日、則頼・豊氏2代の積年の功労により、筑後国北部8郡21万石1千石に転封され、翌7年(1621)3月18日(陽暦5月9日)久留米城に入る。

筑後国:

  • 久留米藩領(8郡):御原、御井、山本、竹野、生葉、三潴、下妻、上妻
  • 柳川藩領(2郡):山門、三池

この頃、久留米城は城中の寝室の建築がまだ成らない事を聞き、封内巡視して城に入ろうとした。
入封後、藩治にこころをくだき、文武を励まし、施政を公平にし、役人の非行にも注意し、窮民には減租を行い、農業を奨励した。
領中の古城である榎津・城島・福島・黒木・赤司を崩し、久留米城の修築、侍屋敷の設置、市街地拡張、廃されていた神社仏寺の再興や新しく建立して民心を和らげた。

寛永14年(1637)11月、島原の乱が起きると、一緒に江戸にいた世子忠郷を久留米に急派し、島原に出陣させた。また、派遣された久留米藩士の中で若い者たちに「お前達は久留米に帰り国を守れ」と命じて島原から戻らせたという。

また、豊氏は若年の頃から深く禅に帰依し、傍ら儒学を学んだ。だから戦に臨んで沈着、国政をとっては仁慈を垂れて民心を収め、士民悦服した。

質素を旨とし、寡欲恬淡であった。足袋は洗って3度用い、少しの汚れは手ずから洗ったという。質素な豊氏の逸話が多く残っている。

「つとに櫛風沐雨の労をいとはせられず、深遠の識量をもって永世の基業を定められた」
*)櫛風沐雨の労(しっぷうもくう):風や雨にさらされて苦労をし、奔走すること

有馬連姫

徳川家康の外姪にあたる。父松平源七郎康直が天正16年(1588)、急逝し孤児となったのを哀れんだ家康は、慶長5年(1600)6月養女とし有馬豊氏に配した。連姫は17歳。

嫁になったその月、豊氏は父と共に上杉景勝征伐の家康に従って出陣したが、その留守中、大阪城の奉行で景勝と呼応した石田三成は大阪にいる諸将の妻子を大阪城中に人質にするため兵を諸将の邸宅に遣わした。留守を預かっていた家臣たちは連姫を海路で則頼居城の播州三木に移そうと図ったが、連姫は「脱出の途中敵の手中に落ちたら夫君の恥となるので、あくまでも邸に止まって、奉行から強いて入城を迫られたら潔く自害する」と決心のほどを示して動ずる様子がなかった。

承応元年(1652)7月20日江戸辰口邸で没。享年69歳。墓は東京都渋谷区祥雲寺

豊氏の時代(誕生-24歳迄)

  • 永禄12年(1569) 豊氏誕生
  • 元亀1年(1570) 姉川の戦いで信長と家康が浅井・朝倉連合軍を破る。
  • 元亀2年(1571) 信長、比叡山延暦寺を焼き打ち
  • 天正3年(1575) 長篠の戦いで信長・家康が武田を破る
  • 天正10年(1582) 本能寺の変
  • 天正13年(1585) 長岩城主・問注所の次男で僧の快心が坂東寺を建立
  • 天正14年(1586) 秀吉が羽犬塚の宗岳寺に六地蔵尊を寄進
  • 天正16年(1588) 刀狩令
  • 天正19年(1591) 毛利秀包が高良山座主麟圭一党8人を殺害(八つ墓の由来)
  • 文禄1年(1592) 文禄の役(朝鮮征伐)・城外柳原に西方寺を開元 (豊氏24歳)

資料:

・久留米市史

・久留米人物誌(篠原正一)

・久留米小史(戸田乾吉)

・筑後久留米有馬藩歴史之旅(篠原盛義)

歴代藩主で、久留米藩第一代目となる有馬豊氏=初代、その父則頼=藩祖と考えるのが妥当かと思うのですが、実際にはあいまいで、 例えば久留米に入部したことを記念する藩祖祭は豊氏を藩祖としています。
藩祖=初代と考えればいいのですが、今のところ納得のいく解決ができていません。
ここでは則頼を藩祖、豊氏を初代と考え、藩祖祭の藩祖は例外的に:豊氏・・・と処理しています。

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