家紋

有馬則頼(のりより)(梅林院)形部郷法印

【天文2年】(1533)-【慶長7年】(1602/7/28)

天文2年(1533)、有馬重則の二男として播州三木郡満田城に生る。幼名は源次。

永禄8年(1565)5月19日、二条城にいた将軍足利義輝が、 松永久秀に急襲され殺された時、父重則は義輝を守って死んだ。

その後、年少の則頼は城を失って放浪し、三好長慶に属したり、姉婿の別所長治に従っていたが、天正8年、秀吉が中国の毛利氏征伐のために播磨に進んだとき、従って戦功を立て播磨国淡河3200 石を与えられ、後に1万5千石に増封されて淡河城を居城とした。

明智光秀を討った秀吉が、清洲城で織田信長の後嗣を決める重臣会議で柴田勝家・丹羽長秀らに殺害されようとした時、遅れて到着した則頼は秀吉の側に達し、終始秀吉を守った。これを徳として秀吉 は則頼を厚遇したという。

文禄年間(1592~1595)、秀吉が徳川家康を伏見に留めて帰さなかった時、則頼の取りなしで家康は関東に帰ることができた。これにより家康の厚意を得た。

秀吉没後は家康に属して働き、上杉景勝征伐、関が原役に軍功を立て、慶長6年(1601)、摂津国有馬郡三田に2万石を領して移り 、翌7年(1602)7月28日没した。享年70

彼は武人であったばかりでなく茶人でもあった。淡河城を領した後 、従五位下に叙され、金森入道素玄・徳永入道寿昌と共に豊公御相伴衆の随一として三法師と称せられた。相伴衆の役は足利氏の世に起こった茶道の名誉の地位であり、秀吉は、しばしば則頼の大阪邸の茶席に臨んだ。邸に臨む折、秀吉は附藻肩衝の茶入・牧渓の画軸 ・雲谷の画屏風等の珍器を贈った。茶道名として、薙髪後は形部法印と称した

(有馬義源公9p)(贈三位有馬豊氏卿略伝2p)

「つとに櫛風沐雨の労をいとはせられず、深遠の識量をもって永世の基業を定められた」
*)櫛風沐雨(しっぷうもくう)の労:風や雨にさらされて苦労をし奔走すること

有馬お振

有馬則頼の室で、初代豊氏の母、別所志摩守忠治の女。則頼との間に四男五女をもうけたが、長男は則氏(幼名・四郎次郎)で、豊臣秀次に仕え、天承12年(1584)4月9日、小牧山の役にて戦死した。次男が藩祖 豊氏で、三男則次は若死に。四男は旗本として将軍家に仕えた 。 天正16年(1588)没。播磨国淡河の長松寺に葬られ、梅窓院と諡されたが、のち久留米の梅林寺に改葬。

資料:

・久留米市史

・久留米人物誌(篠原正一)

・久留米小史(戸田乾吉)

・筑後久留米有馬藩歴史之旅(篠原盛義)

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