柘植善吾

*)柘植家は、代々、小姓の職で、現・日吉小学校に屋敷があった。

1842年(天保13年、7月)この頃、11代有馬頼咸の時代
十間屋敷(現在の日吉町)久留米藩士・柘植伝八の長男として生まれる。
1860年(安政7・万延元) 
18歳で藩校・明善堂助教となる。
1863年(文久3年)
21歳の善吾は藩命で長崎英学塾へ入門。
入門後、毛筆でウェブスター小辞典を筆写しながら翻訳をするなど大変な努力をした。
1866年(慶応2)
24歳で塾長に選ばれた。
11月、長崎の英国領事館員アストン一行を久留米に招待。通訳として同行し活躍した。
1867年(慶応3年3月8日)
25歳、 、藩主の命で長崎を発つ。久留米藩初の留学生(密航:名目はセントルイス市の博覧会に出品)英帆船「フィロン号」船倉に出品荷物として箱詰になる。3昼夜は飲まず食わずだったという。こうして密航した花房義質、柘植善吾の二人は、詳細は不明だが「徳川昭武幕末渡欧日記」中に名前が記述されているようだ。パリでは8日間、博物館・工場・病院・養老院等の見学。ロンドンでは、16日間、天文台・造船所・兵営練兵・郵便等に注目した。
これらの視察後、アメリカへ渡った。
1867年(慶応3年6月16日)ボストン着。ここで1年8ヶ月の留学生活を送った。
1867年(慶応3年12月14日):王政復古の布告が出される。

明善90年史より
平賀磯三郎、花房虎太郎、米人教師ディラウェー、柘植善吾、青木善平

「明善校90年誌」より転載

1869年(明治2年)27歳、藩命で帰国。
1月9日、ニューヨーク出航。
3月7日、長崎着。
3月19日、久留米城で藩主・頼咸に目通り。

最初、小姓として、学問・教育を通じた人材育成・農工業振興をすすめたが、
それを疎んじる人たちに妨げられて城外に追われ、藩軍艦・千歳丸艦長となる。

1872年(明治5年)学制がしかれる。
宮本洋学校校長となる。生徒の定員は150人。水天宮からの寄付9200円。経営費用の捻出に困難を極めた。
1874年(明治7年)
佐賀の役が起きる。
近郊では人心不安になり、生徒も減り、宮本洋学校の廃止(お雇い外国人教師の給与等が原因の資金難とも佐賀の乱による影響ともいわれる。)
善吾は県学校係となった。
1883年(明治16年)41歳で上京、農商務省にはいる。  
1886年(明治19年)
駒場農場(現・東大農学部)校長心得、以後10年余を福井県下の各地で郡長を歴任した。
1899年(明治32年)晩年は御井町宗崎に居住。
1903年(明治36年)8月1日、61歳で亡くなる。名は信鋭。号は木石。墓は寺町妙善寺。

4000坪ほどの土地を持ち(数人の仲間と宗崎に入った)土地の人たちに講を勧め、自立を応援した。御井町の3代目町長(明治35年3月就任)を務める

幕末から明治初頭にかけて、政情が混沌とした時代、
彼自身は、恩顧を受けた有馬家に対して感謝の念が強かったようですが、帰国後の地元で彼の能力を有効活用できれば国や久留米のためにもなったと思うのですが・・・。

参考資料:久留米市史
図説・久留米・小郡・うきはの歴史


十軒屋敷の邸宅(生家)は小学校建設に寄付された。

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