元治元年か文久三年末、今井の熱心な推薦で肥前の海軍方に召抱えられていた田中久重を登用することになった。
不破美作は、汽船帆船の購入と西洋の実地を見聞するために、慶応2年9月3日、今井栄、下村市右衛門、松崎誠蔵、田中近江、林田七右衛門、宗野嘉蔵(通弁)らと長崎から上海へ密航した(久重は蒸気船顧問として同行した)
左写真は、田中久重の生家跡地(市内通町十町目)
田中久重(近江大掾久重)の略歴。
寛政11年(1799)~明治14年(1881)
- 市内通町十町目の鼈甲細工屋の家に生まれ、幼少から機械を作ることがすきで
- ○文化10年15歳で絵絣の組み方を考案
- ○21歳のとき、五穀神社の祭礼で水カラクリなどの新しい仕掛けを披露。大阪・江戸などでも興行し、大変な評判を得る。「カラクリ儀右衛門」と呼ばれるようになる。後、大阪・京都に移り天文学や蘭学を学び、
- ○53歳で「万年自鳴鐘」(和時計の傑作)を制作する。
- その後、佐賀藩や久留米藩に招聘され、アームストロング砲や小銃などの製造に携わる。
- ○慶応元年67歳の時、佐賀藩で蒸気船凌風丸を竣工。
- ○慶応2年、久留米藩の今井栄等と蒸気船購入のために上海に密航、藩の洋式海軍力の育成に尽くす。
- ○慶応3年、英国外交官アーネスト・サトウと会見。
- ○明治元年、大阪湾にて、明治天皇の艦閲式に佐賀藩電流丸(儀右衛門親子が製作に関わった)が旗艦となり、久留米藩千歳丸など6隻が参加。
- ○明治6年、75歳で上京し、麻布大泉寺や芝西久保に工場を設ける.
- ○明治8年に新橋南金六町(現在の中央区銀座8丁目)に移転し、電信機などの製作所と店舗を設立、情報通信・エレクトロニクスの分野で、わが国科学技術の発展に大きく貢献した彼の業績に対して、後に「東洋のエジソン」と称えられるようになる。
- ○明治14年83才で没。
平成11年11月吉日 久留米市(JR久留米駅前、カラクリ時計の説明より抜粋)
*)この工場は、田中製造所-芝浦製作所-東芝にあたります。
TOSHIBAの「東芝のあゆみ」に田中儀右衛門について、田中久重物語・2006年に国重要文化財に指定された万年時計(和時計機構・天球儀の機構・時打の機構)についてなど分かり易く解説されています。