田中久重

近江大掾久重

田中久重生誕地跡久重の生家跡
田中久重生家跡地(通町十町目)
護国神社にある田中久重像(制作:豊田勝秋)

生家近く・五穀神社境内の田中久重像 (隣に井上伝
鋳造家・豐田勝秋氏が1881(昭和32)年夏に製作


田中久重のことば

知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、
志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、
その後に、成就があるのである。

略歴。

寛政11(1799)年9月18日~明治14(1881)年11月7日

市内通町十町目の鼈甲細工屋の家に生まれ、幼少から機械を作ることがすきだった。

1817年(文化4)
8歳になって寺子屋に通い始めたが、硯(すずり)箱をいたずらされたので、簡単に開かないように仕掛けを施した「開かずの硯箱」を作ったという。
1813年(文化10)、15歳
絵絣の組み方を考案
1819年(文政2)、21歳
五穀神社の祭礼でからくり人形(身長70cmの娘姿)を上演。水カラクリなどの新しい仕掛けを披露、評判になる。大阪・江戸などでも興行し、大変な評判を得る。「カラクリ儀右衛門」と呼ばれるようになる。後、大阪・京都に移り天文学や蘭学を学ぶ。  
1832年(天保3)、34歳
からくり人形芝居を久留米五穀神社で興行。(また、福島八幡宮氏子町の依頼で、からくり人形2体を製作:(牽牛と織姫)・八女の資料では「二星乃館天女舞姫」とあります。)
1834年(天保5)
大阪上町(中央区)に移住したが大塩平八郎の乱で家を焼かれてしまい、京都伏見に移住し、戸田久左衛門との交流で天文学や数理の知識を身に付け、安倍晴明を祖先とする土御門家に入門して時計の知識を身に付けた。後に京都四条烏丸に「機巧堂」を開店し、多様な作品を製作・販売する。懐中燭台・無尽灯(1837年・天保8年)などを考案
1850年(嘉永3)から1851年(嘉永4)、51-52歳
嘉永3年頃には蘭学者の広瀬元恭の時習堂に入門して、理化学や医学を学んだ。
嘉永4年、52歳で和時計の最高傑作「万年自鳴鐘(国指定文化財)」を完成させた。
1853年(嘉永6)、54歳
佐賀藩(藩主・鍋島直正)は、長崎警備の任にあり、外国の技術に強い関心があった。
蘭学者・佐野常民の薦めで佐賀藩精煉方に着任。中村奇輔(火薬)や石黒寛二(オランダ語に堪能)らと蒸気機関車のひな形製作から蒸気船のボイラーやアームストロング砲の技術改良に取り組んだ。
1863年(文久3)末-1864年(元治元)、65歳~66歳
今井栄の熱心な推薦で肥前の海軍方に召抱えられていた田中久重を有馬藩でも登用することになった。アームストロング砲や小銃などの製造に携わる

御井町矢取久重記念碑
久留米藩鋳造所跡記念碑
久留米市御井町(信愛女学院近く)

1864年(元治元)、66歳
久留米藩で、藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、上画像の石碑が立つ裏山に藩鋳造所を設けた。
アームストロング砲(銅製・元込・施条入り)を鋳造し、ここから南南西約3000m先の飛岳(標高約230m)に向けて大砲の試射を行った。
1865年(慶応元)、67歳
現在の佐賀市川副町大字早津江字元海軍所、筑後川の支流、早津江川に面した佐賀藩の三重津海軍所で、
国産初の実用蒸気船蒸気船「凌風丸」を竣工。
九州・山口の近代化産業遺産群(リンク)
1866年(慶応2)、9月3日、68歳
佐賀を引き払い久留米へ。藩では蒸気船の国産化に限界を感じていた。
不破美作は、久留米藩の汽船購入と西洋の実地を見聞させるために
今井栄、下村市右衛門、松崎誠蔵、林田七右衛門、宗野嘉蔵(通詞)等を上海に密航させた。
(久重は蒸気船顧問として同行)
久留米藩の製造所裁判となり、主として小銃を製作した。その一方で、久留米縞の揚框機、傘ろくろ製造機、櫨の実を絞るための蝋締機、昇水機などを作っている。
1867年(慶応3)、69歳
英国外交官アーネスト・サトウと会見。
藩命により、豊後日田境の激流中に乱立する岩石を破砕して、障害物を取り除いた
(岩石に穴を開け、火薬を充填して爆破、いくらか水害を軽減できた。
放水路の開削建言したが、当時はついに実行されず。
小森野川の大湾曲を取り上げて、水流の変更を説いたが、内務省の改修工事と殆ど一致していた。
1868年(明治元)、70歳
大阪湾にて、明治天皇の艦閲式に佐賀藩電流丸(儀右衛門親子が製作に関わった)が旗艦となり、久留米藩千歳丸など6隻が参加。
1873年(明治6)、75歳
ウィーン万国博覧会へ万年時計出展と政府の電信事業への協力依頼が届き、二代久重となる養子大吉らと上京したが船に間に合わず。
1875年(明治8)、77歳
麻布大泉寺(珍器製造所)や芝西久保に工場を設ける.
新橋南金六町(現在の中央区銀座8丁目)に移転、工部省の指定工場となり、電信機などを製作した。
1878年(明治11)、80歳
発明直後の、最先端技術である電話を試作し、新聞でも話題になったが、同年、工部省電信寮製機所が買収する。 情報通信・エレクトロニクスの分野で、わが国科学技術の発展に大きく貢献した彼の業績に対して、後に「東洋のエジソン」と称えられるようになる。
1881年(明治14)、11月7日、83才で没。墓は東京青山墓地

平成11年11月吉日 久留米市(JR久留米駅前、カラクリ時計の説明より抜粋)

*)この工場は、田中製造所-芝浦製作所-東芝へと発展します。

TOSHIBAの東芝未来科学館で、サイト内に「田中久重ものがたり」(6話)・2006年に国重要文化財に指定された万年時計(和時計機構・天球儀の機構・時打の機構)など分かり易く解説されています。

参考資料:図説「久留米・小郡・うきはの歴史」
JR久留米駅前・御井町鋳造所跡にある久留米市設置の説明板
株式会社東芝のサイト

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