樺島石梁

樺島石梁の生家跡石碑
久留米市荘島町交差点傍
樺島石梁の生家跡石碑

生い立ち

宝暦4年(1754)10月7日久留米市荘島町石橋丁に生れた。本名は公礼、別の名は世儀、幼名は勇吉(後改めて勇七)。石梁はその号。

父ははじめ三悦と称し、祖父の跡をついで10石3人扶持、御茶道格だったが次第に引き立てられ、中小姓組80石の身分となった。石梁の生れる前年に還俗し、三右衛門と称し、家代々の礼儀正しい茶道の修養と同時に誠実で有能な人だったらしい。彼には6人の子供(男4人女2人)があった。

石梁はその末子として生れたが、祖母と9人の家族で生活は苦しかった。
貧しい生活の中で11歳~13歳まで、宮原南陸(学徳共に優れ、門人も多く、後に藩の学問所ができたとき、命ぜられて経書を講じた人)について読書、習字を習うが、入門当時から群を抜いてよくできたと思われる。

石梁の後年の性格「物と人とを大切にし、寸陰を惜しみ、自らは倹約を守りつつ人に多く施し、下僕に対しても物柔らかく顔色が常に変わらなかった」のは、幼少時からの貧しい生活のなかで鍛えられた結果のようだ。

当時、まだ藩の学問所がなかったので、苦しい家計の生活の中、石梁は遊学の志を持ちながら、広津善蔵(藍渓・後修道館教授)などと交わり、同志が集まって勉強していた。
天明3年(1783:石梁30歳)多年の研鑽を認められて藩主・頼徸(よりゆき)から「学業出精につき毎年銀7枚ずつ下賜」という恩命を受けた。

江戸遊学

藩主に学問業績が認められたことがきっかけで、年来の江戸遊学を決意し、兄からは学資をもらわぬということで許しを得た。
天明4年(1784)31歳の正月22日、久留米を出発し、2月25日江戸に到着。その後3年間藩邸で生活し、貧しさに耐え、時に大病とたたかいながら江戸の学者たちを訪ね、ひたむきに勉強した。

天明6年(1786)33歳の時、細井平州の門に入ることを決意し、前後3年間、厳密には1年9ヶ月の間、江戸藩邸を出て学塾である嚶鳴館に移り住んだ。(平州は59歳。学問徳行優れて円熟し、仁斎・徂徠に並ぶ大家だった。(高山彦九郎は24歳(1770)で細井平州に入門している)

天明8年35歳の時、8代藩主・頼貴に中小姓として召抱えられ奏者番支配という役目を仰せ付けられた。

江戸に出て5年目の寛政元年(1789)36歳の5月からは頼貴の侍読として毎日出仕するよう命ぜられ、6月には屋敷を賜り、江戸での講談所御用(学問所の教官)を仰せ付けられた。

学者としての業績

天明8年(1788)35歳のときから40年間、学者として君側に仕えた。中小姓20石三人扶持から大小姓格となり頼貴・9代頼徳の二代の藩主に仕え、侍読として若君たちの教育にあたった。

古賀精理・柴野栗山・菅茶山など当時一流の学者たちと親しく交わり、互いに尊敬しあう。
高山彦九郎とも深交があり、互いにそのことを書き残している。

米沢、西条、長府、村山、人吉、徳山などの諸藩に賓師として招かれ、厚くもてなされた。
文化9年頼貴公が亡くなり、新しい藩主頼徳公により御使者番格に栄進した。

藩主・頼徳の信頼は厚く、文政3年(1820)67歳の時には御蔵米130石を与えられ、文政7年、71歳の時には学業抜群ということで御側物頭格を仰せ付けられたが、当時の封権時代に、一代でこれほどに栄進した人は少ないという。

明善堂創建

江戸に遊学して12年、寛政7年(1795)42歳の6月、石梁は若君のお供をして帰国した。
(同年9月、42歳で初めて妻かつ子をめとる。)

寛政8年(1796)2月、講談所再建の監督を命ぜられ12月に完成し「明善堂」と名づけられた。

有馬藩の学問所は天明5年(1785)両替町(現・山下病院のところ)に作られたが、
天明7年、狩塚門内(現・裁判所のところ)に移され「修道館」と称したが、寛政6年正月に焼失していた。

藩の財政事情から再建が困難だったが、篤学の士だった豪農・樋口甚蔵は、石梁を通じて学館再建の費用300両を献じた。

開講のとき明善堂教授を仰せ付けられたが辞退し、従来の教授左右田尉九郎が当たり

共和2年(1802)49歳の時に石梁が正式に教授となり、久留米藩の教学すべてが彼によって司られた。

当時の学問所では、身分による席順がやかましく、些細なことで争いが絶えず、激しい反対もあったが、「学問の府の中まで必要以上に格式を持ち込むのはいけない。学問によって礼儀正しくなれば席は自ずから定まる」という理由で、石梁は断固として学校本来の立場を堅持した。

「神道、仏道その他いずれの道でも広く学ばねばならない」、この学問態度が石梁の真髄だった。

「ひろく諸書を熟読し、一身を修むるは勿論、和漢古今の治乱興亡を考え、人情物態を暗んじ、天下国家の制度沿革を講じ置、まさかの時ひとかどのご奉公あらん事専要の事なるべし」と実用の学問を奨励した。

教員は60余名、士分の子弟の8~15歳までの者を義務教育的にすべて明善堂に就学させたので、毎日生徒数100名が登校した。藩校教育は樺島石梁時代が最盛期だったとされている

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文政10年(1827)春から言語歩行が不自由になり、明善堂出仕も自由とされて養生に努めたが、11月病篤くなり、死期が近いのを悟り、酒の支度をさせ、養嗣子孝継と酌み交わし、辞世の歌を誦して、謡曲を口ずさみながらそのまま瞑目したという。

辞世「いまはにも心にかかる雲なきはかねていのりしあめのめぐみか」

明治44年(没後85年)明治天皇久留米行幸の折、とくに正五位を贈り生前の功を賞せられた。

文政10年(1827)11月30日没、74歳、寺町・真教寺

樺島石梁は、求められて藩内各地の多くの碑に撰文を書いています。

資料:「先人の面影」
「久留米人物誌」

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