稲次因幡守正誠(いなつぐ いなばのかみ まさなり) 円満

稲次因幡守正誠の墓碑

松崎 霊鷲寺境内にある因幡正誠の墓碑(現在は周囲が整備され、下の画像のようになっています)

稲次因幡守正誠の略歴

元禄15年(1702)
久留米城下篠山町に出生(父は有馬志摩経雄(つねお)、代々有馬家家老の家格で禄高三千石 )
宝永4年(1707)(6才)
9月家督をつぐ
享保4年(1719)(18才)
5月家老職につく(同年、藩主 有馬則維(のりふさ)より有馬の称号及び因幡の名号を給わる。)
享保11年(1726) (25才)
正月25日、藩主則維の江戸参勤に随従し、藩主に世子廃立の不可を諫めて、ようやく許しを受けた
享保13年(1728) (27才)
5月、検見その他政道について、有馬内蔵助と連名で藩主に上書
8月18日、藩の重税に堪えず、上3郡(生葉、竹野、山本)の百姓、5700余人は凶器を持ち、減税運動の一揆を起こした。善導寺に集まり御井町まで押寄せた。これに対して、27才の若年家老、稲次因幡正誠は単身で主謀者と会見し、農民嘆願の民意を受け入れて、以下の条を約束して農民の苦しみを救い、一揆(享保の一揆)を沈静させた。    
  • 1)農民の要求に応ずる
  • 2)以後の税は一割一歩減税
  • 3)主謀者の処刑はしない

喜んだのは農民だったが、
家老仲間の不満、藩公の怒りは後年、藩主襲封の問題とからんで津古の庄屋・斉田氏宅に幽閉させられ
3000石の家老から十人扶持の士となり、2年後、没した。行年35歳。罪ある身だったので、この墓地に葬った。

享保14年(1729) (28才)
7月4日に則維が官職を退き七代 有馬頼徸(よりゆき)の代となる。
享保19年(1734) (33才)
8月、禄3000石を取り上げられ、家老職から十人扶持の小身となる。

筑前国境の津古に蟄居

享保20年(1735)(34才)因幡は家を出るとき、平素の居室に記した。

「我は今巌窟を出て山水を望む。 秋の日やほうき取るてにちりもなし」

横隈村の次助(一説次右衛門)方(民家と畑地で確認できず)に蟄居

津古村、武作方に移り蟄居。疱瘡を病んで死去。35歳

稲次因幡守正誠の碑

西鉄急行電車・津古駅から数十歩、北にある津古神社(八龍神社)の北隣・津古公民館の東

辞世「 武士のやまいの床のくたれ死 めでたかりける御代に生れて」

現地説明板

は、元禄十五年(1702)久留米篠山に生まれた。
稲次家は代々有馬家の家老職をつとめ禄高三千石で。

久留米藩主・有馬氏は初代豊氏をはじめ、代々藩主とも名誉心が強く、見栄をはる事が多かった。その為の出費も多く、それを捻出するのに重税を課したので、農民の負担が重く、その不満がしばしば農民一揆を起こしていた。宝永・正徳・享保の頃、洪水、干魃、大風や疱瘡の流行など天災地変により飢饉が相次ぎ、農民が困苦にあえいでいる時に、藩では増税や新税を課したので負担に耐えかねて
享保13年(1728) 浮羽地方の農民が先達となり一揆を起こした。(享保の一揆)

正誠は、その円満解決の為、全責任を一身に引き受けて農民をなだめ、その要求を入れ、一人の犠牲も出さずに一揆を鎮めた。

この正誠の処置は、藩の伝統的政策に反し、藩主の喜ばないところであった。

更に藩主継嗣問題でも、正誠の方針が藩主の機嫌を損じ、

享保19年8月(1734年)
禄三千石を召し上げられ、家老職から住人扶持の小身に落とされ、
国境の横隅村・治助宅(確認できず)、
ついで当所、津古村・武作方に蟄居させられ、
この地で疱瘡にかかり、35才で死去した。
墓は松崎 霊鷲寺にある。
寛延2年(1749年)農民はその徳を偲び、五穀神社(久留米市)に農民の神として祀り、その霊を慰めた。

昭和五十四年二月
小郡市教育委員会
小郡市郷土史研究会

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碑面には「明察功烈之士久留米藩家老稲次因幡先生此地に謫居 悠々11年35年ニシテ没セラル 昭和15年5月 稲次顕彰会」と書いてある。表面は有馬頼寧の揮毫である。題字の「明察功烈」の明察は李鴻章の李文忠碑文から取ったもの。
文忠は清の初年(き)州府知事で百姓騒動を鎮撫した人である。李鴻章は其の文を綴って、「古所謂(いにしえいわゆる)明察之官云云」といった。「功烈」の二字は孟子が管仲を論じて「行国政、其功烈(国政を行ふ、その功烈なり)」とあるのから取っている。

参考文献:「先人の面影」著者篠原正一氏

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寛延2年(1749)(因幡没後12年目)藩主 有馬頼徸の時、久留米通外町に五穀神社が建設された。

祭神は印度五穀の神、婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんていしゅやしん)、明治2年(1869)2月、祭神を豊宇気毘売命に改めたが、この神社は因幡の死に対する慰霊の社であるという説が非常に強い。

因幡が享保一揆を鎮定したときは悲惨な犠牲者は一人も出していないようだが、これは因幡の政治的大見識で、世上まれに見る仁政だった。「この世には人の生命より大切なものはない、人を殺さざるは政道の第一義である。」因幡の広い心によって一藩の農民は減税の恩典に浴し、8郡の農村は一息をついた。

それなのに因幡正誠は不遇悲痛をきわめたのだから死んで神に祀られたのは当然だと考えられている。

霊鷲寺境内で、新しく整備された稲次因幡のお墓
小郡市・松崎・霊鷲寺境内で、整備された稲次因幡のお墓と碑
側背には因幡の母堂が因幡の冥福を祈られた経塚がある。 法号は乾叟院殿三英宗運大居士という。


(備考)

痘瘡(天然痘): 病原体のウイルスに感染してから症状が出現するまでの潜伏期は約12-14日(7-17日のこともあります)です。

最初の症状は、典型的には、高い発熱、悪寒、疲労感、頭痛、背部痛などです。腹痛や譫妄を伴うこともあります。2-3日のうちに、特徴的な発疹が、顔や手足を中心に出現してきます。口やのどの粘膜にも発疹は出現します。発疹は最初は平たく赤いのですが、一斉に盛り上がってきます。すべての発疹が同じ段階にあって進行していくのが特徴です。最初は水を持つようになっていたのが膿を持つようになり、二週目のはじめころにはかさぶたになり始めます。かさぶたで被われるようになり3-4週間後にはかさぶたが剥がれ落ちます。

大部分の患者は回復しますが、致死率は30%にも及ぶことがあります。

(横浜市衛生研究所のサイト「痘瘡(天然痘)について」より引用しました。http://www.city.yokohama.jp/me/kenkou/eiken/idsc/disease/smallpox1.html)

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