経歴:江戸詰め御用席の今井七郎右衛門の子で江戸藩邸に出生。名は義敬、字は蕘夫。久留米の屋敷は十間屋敷(現・日吉町)和漢の学を修め、算数にも通じ、洋算は竹内岩五郎に学んだ。また英語は洋式兵学者の古屋作左衛門に習ったという。
幼時から同じ年頃の弥作君(十代藩主有馬頼永)に近仕し、頼永が襲封すると、村上守太郎・野崎平八と共に、頼永を良く補佐した。
在府中は勝海舟など幕府や諸藩の人材と広く交友した。このため内外の諸情勢に明るく、のち帰国して藩政に参与し、藩政を開港論にもとずく政策に転換させる素地はすでにこの時期に形成されていた。
弘化3年7月、頼永没後も11代藩主頼咸に重用され奥詰となり、江戸留守居役となり、御納戸役に任ぜられた。
文久3年末、国元勤務に抜擢されると、家老中の実力者有馬河内(監物)や参政不破美作を説得して藩論を攘夷から開港へ転じさせ、西洋の文化・技術の導入や経済政策の転換をはかって富国強兵につとめ、開成・成産・開物の三局を設置した。
この結果、海軍においては薩摩・肥前・長州につぐ船艦保有藩となり、いろいろな開明的政策もその実効を現した。
慶応2年9月3日、下村市右衛門・松崎誠蔵・田中(近江)久重・林田七右衛門、及び通弁として宗野嘉蔵5人を同行して上海オランダ領事グロースの手引きで長崎から上海に密航して9月21日に長崎に帰還した。
この航海は、藩の海軍、海運改革のための汽船・帆船の購入を兼ねて西欧の実地を見聞するためだった。
今井はこの紀行を「秋夜の夢談」とその付録「上海雑事」の2書に残した。
*)「上海雑事」には次のような記述がある。「形以上の事はアジア州中の善を取るべし。形以下の事は、兼ねてヨーロッパの善を選び取るべし。(中略)治国平天下の作用にいたっては、ただヨーロッパの善を併せ取るだけではない、一大地球の善なるもの、皆取って我が物とすべきである。いま徒に漢土の糟糠を固守して、西洋のなすところを誹る者は、これ井の中の蛙の見るところで、時を知らないというべき。」
*)今井栄らは洋船購入の藩命を受けて長崎へ行ったが、事が進展しないのでオランダ領事ボートインに相談すると上海行きを進められ、悩んだ末に彼の斡旋で独断専行して上海に渡ったとされる。(久留米人物誌p644)
明治元年1月26日夜、参政不破美作が小河真文以下24名の尊王攘夷派の若者に暗殺されると、政権は急変し、京都にいた水野正名が御用席詰に登用されて参政となり、水野を首班とする尊王攘夷派の藩政府が成立し、いままで長年藩政を執ってきた公武合体開港派はすべて退けられた。
4月18日、執政有馬河内(監物)は退隠永蟄居、今井栄以下11人は永揚屋入りとなり、総計32人が処罰された。
翌2年(1869)1月29日、今井栄ら(下記)9人は牢より引き出され、「今般国是の妨げにより屠腹仰せ付けられ候」という簡単な申し渡しだけで、寺町徳雲寺で屠腹させられた。
今井栄は享年48歳。墓は寺町の西方寺
今井栄・喜多村弥六・久徳与十郎・北川旦・松岡伝十郎・石野道衛・本庄仲太・梯譲平・松崎誠蔵*)今井は勝海舟と親しかったので、藩が初めて蒸気船を購入する時、大津遠太・弥永健吉を勝海舟の元に送った。また英語教育への期待も大きく、慶応年間には英語学校を興す目的で蘭医松下元芳を福沢諭吉の塾に派遣した。・・維新の混乱と今井の死で実現できなかったが、後に好生館(医学館)での柘植善吾の英語教授、宮本学校の創立へと受け継がれた。また、真木和泉も有馬監物に進言していたが、肥前の海軍方に召抱えられていた田中久重の能力を評価し、久留米藩に再び迎え入れたのも今井の力である。
すでに薩長土肥の雄藩が実施しつつあったものと同一の傾向に属するが、今井の政策「攘夷論→開港論、富国強兵のために西洋諸国との交易や近代的諸科学技術の導入・洋式軍備の採用・殖産興業・・・etc、歴史的過程を敏感に捉えていた今井の卓見。当時の藩の開明度の尺度となる軍艦保有を薩・長・肥につぐ水準に高めた彼の努力は改めて評価すべきである。
しかしながら、当時の久留米藩内は尊王派は反対論を固持し、藩権力を持っていた佐幕党も今井を誹謗するものが少なくなかった。