不破 孫市(ふわ まごいち)

経歴:文政元年(1818)2月19日出生。如一と称し、不破美作の兄。学問あり、文章達者で政治の才あり。天保15年9月に参政となる。頼徳・頼永・頼咸の三人に仕え、特に名君・頼永の信頼を受けた。

父は左太郎、母は早崎平蔵の娘。

頼永は弘化元年(1844)6月に襲封すると、藩財政の立て直しを断行した。収入をはかって支出をなす根本政策を立て、大倹令と共に大阪商人、藩内の豪商農からの借入金を5ヵ年借居(借りすえ)を断行し、財政整理の効を挙げ余裕さえ生じた。

藩内の交渉は国老・有馬播磨に頼永の書を示してその趣旨を説明させ、借居を承服させた。
外債、即ち大阪商人に対しては不破孫市があたり、頼永の誠意のあるところを説いて示談したが、彼の説得によって大阪商人はみなその財政立て直しの誠意に感服し、5ヵ年の借居を承諾したので、頼永の藩財政立て直し成功に大いに働いたことになる。

この頃、藩士の間に党派胚胎の兆しを感じ取った頼永は、孫市にひそかに書を与え、適当な処理をするように命じたが、これは頼永の孫市に対する信頼がいかに厚かったかを示すものである。

弘化3年(1847)7月3日、頼永が没した後、参政有馬豊前(重陳)と協力して執政有馬河内(昌長のち監物)を助け、11代藩主・慶頼(のちの頼咸)に仕えた。

嘉永5年(1852)2月、家老脇の稲次因幡は真木和泉守らと謀って、有馬河内・有馬豊前・不破孫市三人は、慶頼を廃して弟の富之丞(慶頼の異母弟で後の川越侯)を立てようとしていると慶頼に直訴した。慶頼は激怒して3人を閉門にしたが、河内の無実の申し立てで大裁判となった結果、稲次因幡・真木和泉守・水野丹後(正名)・木村三郎らが河内以下3人の失脚を狙っての謀計と判決され、多くの者が処罰された。(嘉永の大獄)

このように、真木党側からは不破孫市たちは奸臣と目されていたが、江戸詰めをしている時、安政大地震に遭い、江戸藩邸で安政2年(1855)10月2日圧死した。享年38才

藩財政の立て直し

弘化元年(1844)6月に頼永が父頼徳のあとを継いで第10代藩主となったとき、藩財政は極度に窮乏し、領内の富商・豪農からの調達金の借り上げ、大阪商人などからの借金は、莫大な額に達していた。頼徳の時は、その返済期限がくると、新たに別口の借金をして埋め合わせるという悪循環の繰り返しをしていた。

頼永は襲封すると財政立て直しの計画に取り掛かったが、計画の二本柱は大倹令と借居(借金の返済猶予)だった。

弘化2年(1845)11月2日に5ヵ年の借居を断行したが、領内では頼永の財務整理の真意を尊しとしてすぐに承服したが、大阪商人などの外債に対しては、懇願的な交渉が必要だった。

この大役にあたった参政・不破孫市は、藩主・頼永の誠意あるところを述べ、諸藩に見られる借金の踏み倒しや長期年賦償還と違って、財政再建計画について良く説明し、その返済猶予期間を大倹令と同じく5ヵ年に限定し、その見返りとして蔵米の売捌き周旋を行わせることを条件として説いた。
大阪商人らはその誠意を感じて承諾、頼永の財務整理成功の大きな力となった。

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