不破美作

経歴:不破美作、幼名を與三吉、後に左門、美作(みまさか)と改める。眞寛、正寛また誠之と改める。美作は美作の国名を取ったのではなく、容貌も才智も人に優れて立派だから美作と名のれと藩主頼威から賜った名だという。

父は左太郎、母は早崎平蔵の娘。

兄の孫市は参政として江戸藩邸にいたが、「安政の大地震」で圧死(安政2年=1855年10月6日)、嗣子がなかったので美作がその後を継いだ。

若い時から江戸に出て、多くの学者や識者に接し、つとめて海外の文物に着目研究し、数多の翻訳書を読破して新知識を身につけ、年若くして世界の大勢及び西洋の文物に通達していた。

安政2年(1855)12月奏者番、同3年(1856)江戸勤番、安政4年(1857)6月7日跡目相続500石となる

第11代藩主有馬頼威(1846-1881)は不破美作を明善堂総督に任じ、安政6年(1859)学館御用掛となって藩黌の改革と学制の改革にその功を残した。

翌万延元年(1860)4月、藩校明善堂は学生の増加、校舎の狭隘のために拡張の必要な時期だったので、美作はまず校舎改築を行い、文武両修の藩校として従来の学制の大改革をして、施設・制度をも整えた。(小学課業次第~大学課業次第など)

文久3年(1863)5月11日御用席となり、参政に挙げられると国老有馬監物昌長と相議し、開化思想の今井栄・松崎誠蔵らを重用して、開化的進歩的初め佐幕攘夷の説だったが、後に攘夷が行われにくい事、行うものでないことを知り、国に帰って有馬河内等と佐幕開港の説に変え、その方向を取って政治に携わり、今井栄・松崎誠蔵の積極的政策行動で富国強兵を目的とした政策を強行し、公武合体の親幕的態度を持ったので攘夷勤王派の者の反発があった。

徳川慶喜が政権奉還した後、慶応3年(1867)12月4日、王政復古の号令が発せられ国是を立て直そうという時に至っても、肥前藩主鍋島閑叟の使者が来た時には両肥両筑と合して、もう一度幕府をたすけ徳川慶喜に政権を握らせようという計画をし、はなはだしく勤王党、真木党の憎むところとなった。

これに反対する勤王攘夷の士小川真文以下24人に、慶応4年(1868)=明治元年正月26日の夜、城中から帰宅する途中を待ち伏せに遭って仆れた。時に47歳。

「一夕譚」(本荘著)によれば、状況は以下のとおり。

「夜更け役所引けての途中で暗殺に遭いました。その時壮士は17,8名で三の丸という門の外からつけ狙いながら容易に手を出す機会がなく、不破の門前に近くなったので、壮士の一人が切り込むと、切り外し転げる途端に、すかさず不破も抜き合わせて、掛け声をしつつ多数を相手に30分ばかりも戦いましたが、元来近眼で、ことに暗夜で救援はなく、ついに多人数のために命を取られ、身首を異にしました。」云々。

聞くところによれば彼は世にいう鳥目であって、彼を要撃した壮士は20数人という。彼は要撃を受けると、自家の土塀に身をつけて、両刀を手にしてジリジリと門の方へ進み行き、門扉の閉ざされているのを見て、今はこれまでと、彼が一歩進撃に移り、ついに倒れたとも聞く。

いずれにしても文武両道、才識非凡の人であったと思われる。

その折の斬奸趣意書には、美作の罪状十数ヶ条を挙げているが、
その第4条に「開物、開成などの役所を取り立て人民の膏血をしぼり、専ら聚斂に努め、貧害の困窮に至らしむ」(原文は漢文)とある。

美作は元治元年(1864)に「開成方」を設置し、長崎にも支局を設け殖産興業・物産輸出の道を開き、汽船を購入して全国三位という久留米藩新海軍の陣容を整えるなど、開化的事業を行ったが、攘夷勤王派はこの新政策に大いに反ぱく心をつのらせられた。

*)「開成方」とは、殖産興業及び物産輸出の道を開き、富国強兵を目的とし、汽船帆船の購入をもつかさどり、藩の新海軍建設にも努力した役所

*)「開物方」とは鉄・金・銅の開発と精錬をする役所。

これらの役所の内容から推しても、美作が進歩的人物であったことがわかる。

志半ばにして凶刃に仆れた非凡な英才、美作の開国開化の進歩的思想は、
慶応2年(1866)9月3日、今井栄は・田中近江(久重)や松崎誠蔵等と上海に渡航し、西洋文物の実地見聞をして、火輪船ニ隻を購入して、10月15日帰藩した今井栄に継承されたが、
久留米藩の進歩的思想は、美作を種子とし、当時の国老有馬河内(監物)と後継者の今井栄によって芽ぶき育てられた。

「一夕譚」によれば、かって江戸詰めをしている時、大橋順蔵とも知己となったが、順蔵は不破を評して、一国の政治を執らせたら弊害が生じるであろうから、むしろ藩校の督学にすれば、誠に適任であろうと話したこともあるという。」

「久留米人物誌」:篠原正一

「十志士の面影」

墓は寺町本泰寺にある。

法号は諦智院殿篤山日妙居士、墓標は不破眞寛墓とある。

不破美作の歌

歳暮述懐「よかれとて思ふ心尋ぬれば答へもせずに年はくれにき」

美作が活動した時期は幕末動乱期、日本が激しく揺れ動いた時代

*)不破美作襲撃事件の首謀者に佐々金平真成という勤皇志士がいました。彼は維新後に編成された「応変隊」の設立に関連し、戊辰戦争で1869年(明治2)、函館の戦いに応変隊の1小隊を率いて参戦し、戦死しています。(墓は御井町山川招魂社内にあります)

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