有馬河内(監物)の時代

1821年(文政4年)国老・有馬織部(照長)の長子として誕生
1839年(文政9年)18歳で藩政に関わる
1851年(嘉永4年)
十組問屋再興・株仲間の再興許可
八つ墓建立
1852年(嘉永5年)
2月、真木党脇家老(尊王派)の誣告で有馬河内(攘夷派)は一時閉門
1853年(嘉永6年) ペリー、浦賀来航
徳川家定が13代将軍となる
日米修好通商条約批准の特使・新見豊前守が、リンゴ苗木を米から持ち帰る(明治期に日本中で栽培される)
1854年(安政1年)ペリー再来 日米・日英・日露和親条約
1855年(安政2年) 日仏・日蘭和親条約 安政の大地震…江戸大地震
1856年(安政3年) 江戸築地に講武所開設
1857年(安政4年)初代アメリカ領事ハリスと下田条約締結
1858年(安政5年)井伊直弼、大老に就任、安政の大獄 (吉田松陰は翌年に死刑)
徳川家定死去→14代将軍・家茂となる  島津斉彬が急逝
1859年(安政6年) 西郷隆盛、大島に流される
1860年(万延1年)桜田門外の変(大老・井伊直弼、尊攘派に暗殺さる)
1861年(文久1年)毛利敬親が公武合体を献議
高松凌雲、緒方洪庵(適塾)へ入門   
1862年(文久2年)坂下門外の変(老中・安藤信正を尊攘派が暗殺) ・和宮、家茂と婚儀
生麦事件:島津久光の行列(江戸からの帰途)に乱入の英人を、家来等が殺傷、薩英戦争のきっかけとなる。
1863年(文久3年)薩英戦争・英国艦艇7隻鹿児島湾に来航
4月5日、真木和泉守は藩主に謁見、藩の方針を尊皇攘夷とするよう要請、河内を弾劾
4月7日、有馬河内は謹慎閉門となる。
5月1日、藩主は赦免した有馬河内に事態収拾と協力を要請。
5月17日、津和野藩主、亀井茲藍(藩主の兄)等の力で真木党、河内は赦免、藩命で上京
8月18日、大仏の変
この頃、有馬河内(監物)不破美作今井栄の進歩的開明論に共鳴し、
藩の方針を公武合体・開港開明とした。
1864年(元冶元年)
1月、汽船・雄飛丸を購入し、洋式海軍を創設。
3月、真木党ら尊攘派を押え、進歩的政策を進めた。
7月、蛤御門の変真木和泉守等の自決等で久留米は公武合体派一色となる。
7月、第一回長州征伐

河内は不破美作らと長崎へ行き、西洋人と会うなど、西洋文化・技術の導入を考え、新経済政策を立て、富国強兵を目指した。

外国汽船を数隻購入、西洋の兵式で、幕府、薩摩、肥前につぐ強力な海軍力を作った。

1865年(慶応1年)第2回長州征伐
1866年(慶応2年) 薩長連合 ・ 徳川家茂死去→慶喜が15代将軍になる
高松凌雲、徳川慶喜の奥詰医師になる
11月15日、河内が英士官アストン(のち神戸領事、朝鮮の代理公使)と
市の上・有馬別邸で会見、その後、藩士達を長崎へ派遣、洋書を学ばせる。
柘植善吾をひそかに米国ボストンへ留学させる
1867年(慶応3年)大政奉還 王政復古
高松凌雲、徳川昭武(慶喜の実弟)に随行、渡仏して医術(外科学)の研究を続けた
今村の潜伏信徒発見
四番崩れ:肥前国浦上村山里(長崎市)4番目のキリシタン検挙事件)
1868年(明治1年)鳥羽伏見の戦・五箇条御誓文・戊辰戦争・西郷、勝会談で江戸城接収
1月26日、小河吉右衛門(真文)以下真木党24人は
下城途中の不破美作を斬殺した後、自首したが、
王政復古を迎えた時で、藩主より無罪放免とされた。
(家老の河内を殺せば後が面倒として難を逃れる。)
2月24日、藩政一新として水野正名が参政に登用された
美作殺害で河内政権は瓦解、真木党(勤王派)が復活)
3月1日、有馬河内は引退。その下で活躍した今井栄、松崎誠蔵らは終身獄、
32人も処罰された。(久留米藩難事件)
4月18日、有馬河内は下屋敷に永蟄居とされ
11月、有馬河内は47歳で死亡(自殺説もある。
高松凌雲、戊辰戦争勃発の報で帰国し、幕軍の榎本武揚らと行動を共にする
1869年(明治2年)版籍奉還・官制改革
1月、旧公武合体派政権指導者9名、徳雲寺で屠腹(久留米藩難事件)
4月26日井上伝没:天明8年(1778)12/29~明治2年(1869)4/26
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