有馬河内(監物)

有馬河内(名は昌長、主悦・山和・兵庫・後に河内、監物と改める。字は君寿。郷は蔵焉。)文政4年(1821)4月の生まれ。

国老・有馬織部(照長)の長子で、国老・馬泰賢(嘉永3年6月没)と河内の父・有馬照長(嘉永4年7月没)のあと、天保10年(1839)9月18歳の時から藩政に与り、久留米藩の実質的指導者として幕末20余年間の困難な藩政を執った。

有馬河内の政権は、公武合体・開国主義で、富国強兵を目的とし、進歩的政策を押し進めたが、有馬頼永(前藩主)を輔佐していた村上守太郎・野崎平八・今井栄、有馬豊前・不破美作等と共に、勤王攘夷主義の真木党と激突を繰り返した。

嘉永5年(1852)2月、真木党である脇家老・稲次因幡正訓は藩主に「有馬河内(執政)・有馬豊前(参政)・不破孫一(参政)が藩主を廃して弟君・富之丞を擁立しようと図っている」と誣告して彼等の失脚をはかった。

まだ25歳の若い藩主・慶頼(頼咸)は、思慮を忘れ激怒し、河内と孫一は閉門、豊前は厳重な監視下におかれ、その後1ヶ月間、裁判が続けられた結果、河内以下3名は無実と判定され、罪を解かれて再び政権の座に戻った。

一方、真木党は5月17日、稲次因幡(正訓)、水野丹後(正名)、真木和泉守・木村三郎は終身禁錮、総計15人が処分を言い渡された。これが「嘉永の大獄」で、和泉守は八女郡水田村の弟・大鳥居敬太の家に蟄居を命ぜられた。
文久2年(1862)2月16日、幽居の「山梔窩」を脱出するまでの、11ヵ年、ここに蟄居した。

嘉永の大獄から11年後の文久3年(1863)に真木和泉守と有馬河内は再び激突。

解囚された和泉守は同年4月5日、藩主に謁見し、河内を激しく弾劾し、藩の方針を尊攘の一途にすること等を要請したため、河内は翌々7日に謹慎閉門を命ぜられた。
すると12日夜中、河内派の吉村武兵衛・本庄忠太ら4人が登城して「和泉の非」を訴え、翌13日に「和泉捕り」といわれる弾圧がおこなわれ、真木党28人は逮捕され尋問が始められた。

藩主は5月1日、河内に書状を与え、速やかに登城して事態の収拾と今後の協力を要請した。

真木党は中山侍従・忠光や藩主・慶頼(頼咸)の兄の津和野藩主・亀井茲藍の切言により同月17日ことごとく赦免され、多くのものは親兵として上京することになった。
河内も藩命により家来・白井崇太郎以下18人と真木党の池尻茂左衛門(葛覃)など8人を連行して上京、6月19日京の頂妙寺に入った。

上京の途中、6月11日、攘夷の点で一致していた河内と池尻茂左衛門(葛覃)は、長州藩主・毛利敬親の親子と家老・宍戸備前守等と会談し、尊攘について論じ、大里に砲台を築き、長州の外国船打ち払いに応援することを約束した。

京都では学習院の評議に出席し、真木和泉守に同調し、長州の国老・益田らと共に天皇に攘夷決行の大和行幸をすすめた。8月14日に京を離れて帰途に着いたが、その後間もなく、公武合体派の会津・薩摩のひそかな策動で8月18日、尊攘派の公卿・三条実美以下の七卿が長州に走る政変が突発した。

有馬河内(監物)は尊攘派だが、朝廷と幕府の関係ではあくまで公武合体説を持した。参政・不破美作も同じく公武合体・攘夷の考えだった。

この両人は、8月18日の政変(大仏の変)で久留米に逃げ帰ってきた真木党の者全部を捕え、さらに久留米に残っていた真木党の木村三郎、池尻茂左衛門、西原湊なども捕らえて獄に投じた。(25名)後に赦免された14名を除き、木村、西原らは慶応3年(1867)11月まで5ヵ年、池尻は慶応4年(明治元年:1868)まで公武合体派が一掃されるまで幽閉された。

京都や長州にいた真木党の勤皇派はこの弾圧を逃れたが、

  • ・大仏の政変直後、大和で挙兵した「天誅組」に参加した和泉守門下生、荒巻羊三郎・酒井伝次郎・江頭種八は幕軍に捕らえられ、京の六角獄舎で刑死 (元治元年(1864年)
    2月16日)
  • ・首領の真木和泉守は元治元年(1864)7月の蛤御門の戦いで敗れて天王山で自刃。
  • ・水野正名らは大宰府で五卿の警備に当る

・・久留米に勤皇党の姿はなくなり、藩政府は河内・美作以下の公武合体派一色になる。

間もなく有馬河内(監物)・不破美作は文明開化の進歩思想を抱く今井栄に説かれて、共鳴し、従来の攘夷思想を捨て、公武合体、開港開明を藩の政治方針と定め、明治維新まで、この方針のもとに進歩的な藩政を強力に推進した。

翌元治元年(1864)1月には、汽船・雄飛丸を購入して洋式海軍を創設すると共に、3月には急進尊攘論脱藩の者を厳科にすべき旨を布告し、脱走のものは斬殺すべしと命令して、真木党を押え、進歩的政策をぐんぐん進めた。

雄飛丸に次いで数隻の外国汽船を購入し、兵式も西洋方式とし、幕府、薩摩、肥前につぐ強力な海軍力を作り上げた。

また西洋の文化や技術を導入し、新しい経済政策を立てて、開成、成産、開物の三局を設置し、富国強兵を目指した。河内は自ら美作らと長崎に行って西洋人に面接した。慶応2年(1866)11月15日英国士官アストン(のち神戸領事、朝鮮の代理公使)と有馬別邸(市の上)で会見し、その後、藩士十余人を長崎に遣わして洋書を学ばせた。
またひそかに藩主の小姓・柘植善吾を米国ボストンに留学させた。

河内・美作によって幽囚、圧迫を受けた真木党は両人を憎み、ついに慶応4年(明治元年:1868)1月26日夜、不破美作は下城の途中を小河吉右衛門(真文)以下24人の真木党の青年に襲われて斬殺された。河内も殺害の目標とされたが、家老を殺しては後が面倒として難を逃れた。斬殺後、24名の者は自首したが、時は王政復古を迎えている時、罰せられるどころか、藩主より「忠士の者」のお褒めの言葉を頂戴して無罪放免になった。

不破美作が殺害されると河内政権はたちまちに瓦解、真木党の勤王派が復活し、2月24日に藩政一新のため水野正名が参政に登用された。河内政権の政策を執行してきた今井栄、松崎誠蔵らは終身獄、32人も処罰された。河内は3月1日に引退したが、4月18日に永蟄居を申し渡され、下屋敷に引きこもり、同年(1868)11月47歳で死んだ。一説に自殺といわれている。

久留米人物誌p594による

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