久留米藩校(明善堂)の歴史

天明3年(1783)2月(7代藩主頼徸:よりゆき)
学文所:藩立最初の学問所。両替町に開設。儒官に高山畏斎を登用し、藩士子弟の教育にあたる
天明5年(1785)2月
8代藩主頼貴の時、講席(講談所)を両替町に設立。
広津藍渓・徳永円次、宮原南陸・津山東溟らが講官となる。(総括:杉山正仲)
天明7年(1787)
講席を狩塚門内の城内に移転。修道館と称した。
席順なども身分差の意識が強く、格式家柄にとらわれた身分関係は、教育を大いに阻害した。
学統は幕府の正学・朱子学であり、正学・異学の区別を厳にした。
寛政7年(1795)
正月7日夜、類焼のため焼失。
*)この頃、江戸藩邸でも子弟教育のために講談所が設けられ、
樺島石梁が寛政元年5月~帰国する寛政7年5月まで学を講じた。
寛政8年(1796)
樺島石梁に修道館再建の命が下され、教授・左右田尉九郎と協力して建築資金の調達から始めた。
追手門内に校舎を新築し明善堂と改称。
安政6年(1859)改築されるまでの64ヵ年が隆盛時代。
石梁の教授時代、学制は整い、内容も充実、教員60余名、
士分の子弟8歳~15歳までの者を義務教育的にすべて明善堂に就学させた。
安政6年(1859)
明善堂の改築。学制が改革され、武芸も教え、明善堂を文館、武道館を講武榭と称し、文武両道の学校と改めた。
名称を「学館」と称してから明治4年(1871)廃藩までの12ヵ年の末期時代。

藩校88年間で、教授職についた者は、左右田尉九郎、樺島石梁、池尻葛覃の3名だけ

また、石梁の没後、30余年間は本荘星川(一郎)が司った。

星川は天保8年(1837)9月、教授助に進み、安政5年(1858)2月15日73歳で没した。
明善堂の学制統一を図り、各藩の学制を研究して改革の資料としたが、石梁時代の学風を朱子学に統一して、その純正化を強く推進した。
文政11年(正月)勧学のため、無欠席の生徒に書物や賞金を授与する制度をつくるなどの改革を行った。

11代藩主頼咸は明善堂復興意見に従い、安政6年(1859)1月には不破美作が明善堂総督となったが、幕末の政治的対立の波は学館にも及び、学事は衰退する傾向にあった。

医学館 久留米の西洋医学、蘭方医が導入されたのは、
天保3年(1832)蘭医シーボルトの門人、工藤謙同(豊後杵築の人)が久留米に来て医業を開いた。

工藤謙同と交わりを結んだ真木和泉守は、西洋医学の優秀性を知り、藩主や執政に上書した「維新秘策」「秘策」の中に、西洋医学を基として医学刷新、医制改革、特に医学館の設立を具体的に説いた。
当時の執政・有馬監物が医学館設立に着手した。
文久3年(1863) 3月、久留米藩最初の西洋医学校「医学館」が荘島の東立丁に設立された。
明治2年9月、医学館は篠山(祇園社通の四つ角)に移され、「好生館」と改称し、英学部を新設し、医学および英学教育の二本立てとし、英学部の教頭にはアメリカ留学帰りの柘植善吾が任ぜられた。

好生館は
明治4年5月、医学校を廃して洋学校に改められ、旧学館の講武榭跡に移り、久留米洋学校(日新館とも)と称し、
明治4年7月、廃藩により、久留米県に、さらに三潴県に移され
明治4年8月、柳河洋学校と合併し、宮本中(洋)学校と変遷した。
*)柘植善吾は御井町宗崎(当時、宗崎村)出身、久留米藩最初の米国留学生としてボストンに渡る。墓は妙善寺

home