有馬頼徳(よりのり) (月船)(大良院)

9代

寛政9年(1797)6月22日出生。幼名は新太郎。父は8代藩主・頼貴の世子・頼端(よりなお)。父頼端が世子のまま死んだので、文化元年(1804)12月16日、父に代わって世子に立ち、文化9年(1812)3月18日、16歳で9代藩主襲封。号は初め崋山、後に月船・水鴎。

頼徳は資性英烈で聡明、大小の政治すべて臣下にまかせず自ら執務し、また学問・武芸・芸術を大いに奨励したので、学問・芸術の文物は隆盛を極めた。

頼徳は趣味が多く、多芸多才、御庭焼(柳原焼)を焼き、能を舞い、絵画をよくし、造園に心をよせ、文政11年(1814)8月には、城内東方の一部に柳原亭を建築し、約3町8反の遊園を造り 、ここに愛好の鷹の放翔場を併せ作った。文政3年には、芸術修行奨励の令を発布し、芸術修行者に費用を支出した。

治世は33年間(文化~天保)。その間の天保3年(1832)に、久留米藩最大農民騒動の一つ、亀王組農民2千余名の亀王一揆(天保一揆:矢倉八幡宮)も起こったが 、まず世は平和で、文武に芸術に産業に、一世の大人物が輩出した 。対外的大事件は幕府に裁判を仰ぐ肥前藩との論争である。文政3年(1820)3月1日に久留米領鐘ヶ江の漁夫5人が、佐賀藩領の者に殺害され、両藩の争論が解けず、ついに幕府に訴え、幕府が柳河藩主・立花左近将監に仲裁させたことで入漁場の区域が定まり 、事件は落着した。

趣味が強過ぎ、藩財政が窮迫したため、租税が重苛に陥ったが、聡明で鋭敏な頼徳は、政弊を自覚し、趣味の上の費用を大削減し、 天保14年11月には節倹の令を出し、政治を大転回した。

天保15年(12月2日改元し弘化元年=1844)2月、江戸へ参勤の途中で病気となり、4月23日、江戸赤羽邸にて没。墓は東京都渋谷区祥雲寺

大慈(七代頼徸:よりゆき)・大乗(頼貴)・大良(九代頼徳)三公も奢大(おおいにぜいたくする)の風を継承せられ、諛神侫仏(ゆしんねいぶつ)(神仏におもねりへつらう)放鷹・猿楽等に国財を費し、士族の禄を削り、商估(商人)の財を課し、負債夥多(おびただしい)、その弊いかんともすべからざるの極に至れり。

人物誌余録

頼徳の治世33年(文化9年~天保15年)を見ると、内には天保3年(1832)に亀王一揆が起こり、外には文政2年(1819)、佐賀藩領民に久留米藩領漁民が殺害され、漁業権を争う事件が発生し、幕府に上訴する争論もあったが、いわゆる「化政」文化期で最も隆盛を呈した時代だった。

学問・武芸・芸術・産業共に隆盛を極め、人材も輩出し、国老として有馬息焉・有馬泰賢がいたが、すでに明治維新への胎動が始まっていた。(詳細は最下段に)

頼山陽が、日田より筑水を下って 久留米に足を入れたのは文政元年(1818)だった。

頼徳と水天宮

頼徳は水天宮を崇敬すること甚だ深く、江戸より帰国の際、まず水天宮に参拝したことが幾回もあった。ついに有馬家守護神として、文化元年(1818)11月1日、水天宮祠官真木左門(旋臣)に命じて、その分霊を江戸赤羽邸に分社させた。
真木家はこれから中小姓格となり、月5俵、年額60俵の扶持を受けた。左門は真木和泉守の父で、この時、和泉守は6歳だった。
頼徳の創祀した東京都中央区蠣殻町の水天宮は、今は安産の神様として、東京を中心とする関東一円の信仰を集めている。

芸術奨励

文政3年(1820)正月に芸術修行奨励と芸術修業者に対する費用支給 に関する政令を出した。これは頼徳が芸術を理解し、自らも深くその趣味を有していたことを示す政令である。頼徳は鷹狩を好んだ。 その趣味はまず愛鷹の飼養から始まり、陶窯の開設となり、能楽と なり、造園となってゆき、絵画も描いた。

この結果は財政を窮乏に追い込み、重税を賦課する弊政が生じた。かく趣味の生活を深くし たが、政治は臣下にまかせず、大小の政治自らとり、かつ学問・武 事を大いに奨励した。

頼徳と鷹狩

遊猟は武家の一般風習で、特に鷹狩は大名間の流行であった。頼徳 は鷹狩を好んで、鷹の飼育についても記録が残っている。 (p574)略・・・ 文政2年(1819)には、城内東方の一郭に、広大な放鷹場を設け、この鷹場を 中心として、後日、宏麗な柳原亭と柳原園が築造された。放鷹場の 規模の広大さは、次の記録がよく示している。 文政2卯年7月、柳原御放鷹場追々出来、御普請方・御昇方・御作 事方、柳原から御引直、御作事方は佐久間西隣、御普請方・御昇方 は三の御丸外御鷹塒(ねぐら)跡へ御引直、御鷹場広まる

柳原園を造る

「築造は文政2年(1819)の御鷹場築造から始まり、文政12年(1829)丑年8月18 日、柳原御普請皆成就に付、奥詰之面々拝見被見仰付。」の記録のように、園中の御殿「柳原亭」が完成するまで約10年間、築造工事は着々と進められ、なおその後も継続された。

すなわち、天保2年(1831)6月には、柳原園隣接の「御花畑」に二階家の花畑御殿を建築し、同6年(1845)には隣接地に、面積3町8反8畝22歩にわたる又遊園(ゆうゆう)と鷹場を造り、翌7年(1846)3月3日に、 奥詰の高級家臣に拝見を許し、なお同12年(1851)正月2日に、柳原園中に長盛館を建築した。

文政2年(1819)より天保12年(1841)まで32年間、この間常に柳原園は規模が拡大されている。治世33年間を通じて柳原園の造営は続けられた。そして、この柳原園の一隅に陶窯が設けられて、 名器「柳原焼」が焼かれ、御殿では謡曲が謡われ、能が舞われ、月 雪花の四季の景趣にふれては雅宴が催された。

柳原園は、山川自然の大景と、人工の妙技を兼ねた雅趣極まる一大 逍遥園であった、城内東方の眺望開けた長さ10町(約1090m)の景勝の土地を占め、東は高良山・屏風山、西は肥前・筑前の山々を遠望 し、その間に筑後川が横たわって、肥筑の平野をほしいままにし、 山と水と野の自然の大景を前にし、園内に点々と雅趣ある亭が設け られた。御庭焼(柳原焼)の細工場なども含めれば19ヶ所ほどの 場所があった。

頼徳と柳原焼

名陶として世に珍重されている。 天保3年(18321)より7年まで5年間継続して柳原園の陶工軒などで細工し 、軽い物は園中の窯で焼き、大形の物や強く焼き締めを要するものは赤坂(現・筑後市羽犬塚町字赤坂)の三原窯で焼いた。 頼徳自らも製作し、彼の陶技は俊異で一家を成しているという。

頼徳と能楽

頼徳は謡曲、能楽において堂奥に入り、その道の人も感嘆したという。能衣装もけんらんと調成され、「有馬家の能衣装」と称し、能楽界で有名だった。

米府年表の記録に、毎月、御殿御能が催されたことが記されている。 能楽師狂言師に名手が相次いで出た。

久留米藩は前々から謡曲の盛んな土地で、郷土の事物を謡った郷土色豊かな謡曲さえ創作されていたという。享保年間のものには「朝日寺」があり、明和・安永ごろのものに「高良山」「風浪」「一夜川」 が残っている。今日「久留米藩謡曲三番」と称せられるが、それまで謡われなくなっていたが、頼徳の眼にとまって公演された。
謡曲も「五穀」「柳原」という郷土色あふれた新曲を江戸の北村季文という人に作らせた。

頼徳の文武奨励

芸術愛好家だったが、政治をおろそかにはしなかった。長寿者・孝貞者・農耕精勤者・(西偏に享)風良俗の人等の褒賞を恒例とし、随時に善行者の表彰を行った。天災・凶作に対しては、これを救済して仁慈を施し、記録にもあるが官庫に納める年貢米を、不時の用意として、在方に「お囲米」として貯えるなど、治民に留意した 。

頼徳は槍の稽古もし、兵書の講義も受け、藩士の武芸奨励のため大手門内に武芸稽古所、広手に馬場、御殿前に稽古所を設けている。学問も大いに奨励し、自ら樺島石梁、藩校明善堂の経書講義を殿中にて聴くのは恒例で、時々は明善堂に臨み、学生を奨励した。

晩年の頼徳

気宇豪快で英気溌剌の性格で、政治はみだりに臣下に任せず、自ら総覧して裁断する、動的な人、積極的な人だった。なす事すべてが規模が大きく華やかだった。柳原園の造営・柳原焼の焼成の他 、土木事業もなしている。現・久留米市庁傍にあった御使者屋敷は当時の城下町の中枢を占めていた。
ただし、これらの費用は莫大なものとなった。

藩財政が窮すれば、税が重くなるのが常で、頼徳の治世の賦課徴収は重苛に傾いていった。
財政窮迫、賦課の重苛は、頼徳のやりすぎだったが、聡明かつ鋭敏の頼徳は、この政弊を自覚して、天保9年末から愛養の鷹は放ち、能舞台は解体する・・等に始まり、財用節約へと大変化していった。 そして天保14年(1843)11月には質素倹約の令を出し、政治の大転回を示した。

この節倹の令後、半年を経ない天保15年(1844)4月48歳で没した。
もし頼徳が長生きしていたら、前半生は芸術の殿様、後半生は善政の名君の名を得たことだろう。

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30余年の短期だったが、この公の治世は久留米藩歴代を通じての黄金時代で、一世の大人材が輩出し、その開花結実を後世に長く展開した時代だったという。
この時代の流れには、すでに明治維新への胎動が始まっていた。

この時代に輩出した人物:

儒者:
樺島石梁・安元節原・本庄星川
詩・歌人:
岡永楓処
宮崎信敦:明善堂の講師として古今集万葉集等を講演
幼い真木和泉は船曳兄弟と通って学んだ。
三島神社へlink(三潴郡大木町蛭池871-1)
兵学家: 杉山清兵衛
史家: 矢野一貞
発明家:田中久重
勤皇家:真木和泉守
画家:狩野映信
彫金家:
川島一如
原田一輪
原田一春
商人:林田正助
家臣:
有馬昌長(監物)
今井栄
船曳大滋
船曳鉄門(大弐)・・など

「先人の面影」(久留米人物伝記)より

資料:

・久留米市史

・久留米人物誌(篠原正一)

・久留米小史(戸田乾吉)

・筑後久留米有馬藩歴史之旅(篠原盛義)

・「先人の面影」久留米人物伝記

有馬家 家紋

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