有馬頼元(よりもと)(慈源院)

4代

【承応3年】1654年8月25日-【宝永2年】1705年7月18日没。享年52

承応3年(1654)8月25日、2代藩主・忠頼の4男として久留米城中に出生。幼名は四郎。
寛文8年(1668)8月、兄の3代藩主・頼利の急逝で襲封。

寛文12年(1672)5月25日、藩主・頼元、相続4年目で初めて帰国、
海路で大里着、八丁越え、本郷・宮地を経て入城する。(*)大里:北九州市門司区大里

治世38年(寛文9年-宝永2年)久留米藩11代藩主中、2番目に長い治世だった。
4代藩主に襲封時、士の綱紀はゆるみ、領内には贅沢華美の風が流行し、藩財政が苦しくなっていた。

治世中の後半は、5代将軍・綱吉の元禄時代に当り、その贅沢華美の風が領内に流行した。

賢君だった頼元は、この時弊を改めることに努めたが、藩財政の苦しさは、大風・大雨・洪水、それに起因する凶作・飢饉、または大火の災害が打ちつづき、ますます窮乏して財政の立て直しならず、ついに久留米藩はじめての藩札発行をせざるをえなかった

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兄の3代藩主・頼利の生母養寿院の弟である磯辺勘平は、父の2代藩主・忠頼時代からの老臣で、剛直で正義一徹の人物だった。

頼元が藩主となった翌年の寛文9年(1669)5月21日、勘平は時弊を歎いて、有馬壱岐以下5人の国老に対して意見書を提出した。(その職分にない士が上に意見書を奉った初め)
意見書は十カ条からなっている。

  • 政治の得失を論じ、
  • 士の綱紀粛正
  • 冗費冗員の整理
  • 士庶民の贅沢禁止
  • 倹約強調
  • 百姓救済の制
  • 水利の件
  • 家老がニ派に分かれて争うこと

・・・国を思う赤誠をもって指摘した。勘平は寛文11(1671)年5月まで4回の意見書を上申した。

*)1669年、家老衆への上申の中に「出生した子を即座に殺してしまうことが、当国の百姓町人の習わしのようになって来た」とも記述している。

真部仲庵も1675年の「北筑雑藁」の中で「この州諸郡の民家、乳児を生めば、5児に2児、10児に5児を殺す習い」と書いている。

(*)赤誠:少しもうそや偽りのない真心

頼元は勘平の上書を心に留めてか、勘平が指摘した事を政治面に実現していった。
勘平は特に贅沢禁止・綱紀粛正を強調しているが、頼元もまた延宝2年((1674)と延宝4年(1676)に家中を戒め、延宝7年には家中並在町法制書を出して質素倹約をうながし、役侍の綱紀を正し、延宝9年(1681)に奢侈禁止令を出した。この後も数回、綱紀粛正、質素倹約などについての戒告をした。

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元禄3年(1690)10月25日から2泊3日間、頼元は今日の八女郡下の北河内・鹿子尾・日向神・黒木・忠見の山中を巡覧。

頼元は山中巡覧の道作りや休み所が過分に立派に手を入れられているのを見て「幕府の許可を得ている城普請も、家中・在町の困窮のために延ばしているのに、頼元1人の遊楽のために、道作りなどに過分の民力をついやすとは何事か。隣国への風聞もいかがと思う」と郡奉行を責めて、山田小左衛門・高村権内・佐藤儀左衛門・上妻郡大庄屋に閉門を申し付けた。

幕府の文教奨励に応じ、2代藩主忠頼は菊池東匀を、3代藩主頼利は真名辺仲庵と長沼宗敬を招いて藩士子弟の学問を教授させ、久留米藩の文教を興したが、頼元もまた大いに学問を奨励した。

貞享4年(1687)正月に「御学問初めの儀礼」を初めて起し、雲林院道的の講釈を聴き、学問修業の範を垂れた。
元禄4年(1691)7月、朱子学派の中村惕斎を京都から招き、幕府の学問奨励に即して、藩内の学問興隆に努めた。これで藩内の儒学研究が盛んになり、武士ばかりでなく、民間にも儒学研究が盛んになっていった。

善政を施そうとする賢君・頼元の政治を阻んだのは、頼元の代に続いて起った天災人災だった。

藩主となった翌年から治世中に以下のような出来事が続いた

寛文9年(1669)
7月18日、松平出羽守公息女と結婚のために建築した江戸芝藩邸新御殿から出火、藩邸全焼、
寛文9年(1669)
8月11日、幕府から目付2人が被害巡見にくるほどの大雨洪水が起って多くの人馬が流された。
延宝1年(1673)
5月17日、大雨・洪水。土居崩れ、人馬漂死が多い
延宝2年(1674)
2月、南薫天満宮を創建
5月17日、大洪水、柳原土居崩れ、家屋流失。
8月17日、暴風、城下の倒壊家屋40軒
延宝3年(1675)春、去年の洪水・台風で領内飢饉が起きる
延宝4年(1676)
5月8日、大雨洪水、柳原士屋敷、被害多く、京隈小松原に屋敷を移す。
延宝6年(1678)久留米―松崎―乙隈国境―山家・新筑前街道できる
8月5日、大風起る。
延宝7年(1679)
7月18日、翌日にかけて大風。
延宝8年(1680)
榎津町大火、636人への救米出る。
天和元年(1681)
春には大飢饉起り、餓死する者が多く、藩庫を開いて1人につき1日米1合6勺の救助米を配給して、飢民を救った。このため国用は急に窮乏し、ついに吉田市右衛門が総裁判を仰せつかって、9月に久留米藩最初の銀札(紙幣)が発行された
天和3年(1683)
5月10日、大洪水、田畑水損3000町、土手破損10600間
11月30日、この日より翌月5日まで大雪。高良山中、3~4尺積もる。
天和4年(1687)床島小路より出火、同小路過半焼失。
元禄6年(1693)1月22日、翌日まで大雹降り、鳩類打ち殺される。
元禄7年(1694)2月1日、床島出火、類焼数十軒
元禄8年(1695)
2月8日、江戸芝藩邸が再び類焼した。
7月4日、筑後川洪水、瀬下町床上浸水
元禄9年(1696)2月8日、床島在住の塗物師・白石仁右衛門の家から出た大火「白石火事」があった。
久留米城下の大半(士族150戸、田町、細工町、米屋町、鍛冶屋町、魚屋町、呉服町、両替町、片原町、長町は十丁目まで、中町、麹屋町、三本松町、原古賀町は西福寺門前まで、櫛原、十間屋敷)ことごとく延焼し焼失家屋3700。火元の白石はどこかへ姿を消したという。
元禄11年(1698)豊後街道が巨勢川を渡る地点に石浦大橋(大橋町)が造られた
1月~3月まで長雨、夏作物熟せず。
4月24日、原古賀町火事、苧漕川端から西福寺まで3丁を焼く
元禄13年(1700)1月13日、旧冬から雨降り続き、洪水となる。
元禄15年(1702)春から秋まで暴風・洪水が32度も起きた。
元禄16年(1703)11月18日、芝藩邸が3度目の火災で焼失した
宝永元年(1704)大風洪水があり、五穀熟せずして米価騰貴、その上に江戸藩邸は火災にかかった
国用が逼迫して再び紙幣を発行した

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引き続いた天災地災によって窮し切った藩財政を救う道は、再度の銀札発行だけだった。

「久留米私領分、近年大風洪水続、田畑大分損毛、江戸上下屋敷度々類焼、段々勝手方差支難儀仕候。隣国承合処、筑前松平、豊前小笠原、金銀礼遣候 而勝手宜敷候由、第一百姓共相願候。依之七ヵ年程の内に私領分も金銀通用礼遣仕度、右之趣奉願候。」と幕府に願い出て、7ヵ年の期限で銀札の再度発行が許された。
宝永元年(1704)
7月21日、銀札通用の事が領内に達せられ同日札所が亀屋町に置かれた。札元〆は和泉屋伝右衛門・砥屋喜右衛門・戸板屋次兵衛で、奉行は鵜飼才兵衛・瓦林忠左衛門だった。

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久留米小史(巻3)では次のように評されている。

「霊源(三代頼利)・慈源(四代頼元)・昌林(五代頼旨)三公は、いさ さか弊事は生ぜしも、淳厚の風おとろえず。」

「米府年表」には彼についてのエピソードを挙げられているが、その中の一つ。

「郡奉行の里村金左衛門・松田新左衛門は、矢部川の水害を少なくするために、上妻郡矢原村の水除堤(俗にハネと称する)を築いた。
これで久留米領の水害は防げたが、対岸の柳川領が水害に遭うことが多くなり、
これを聞いた頼元は「当領のことばかり考えて、隣国のことを考えないやり方は政をとる者のなすべきことではない」と言って、里村・松田の役儀を召し上げて謹慎を命じた。」

治世38年、頼元は、威儀厳正、平生常に袴を着け、いたずらに民力を尽やす在方の奉行を罰する等、領民を思う政治に心がけ、また幕府の学問奨励に即して、藩内の学問隆盛にも心を向けた。

善政を布こうと努力しながらも、続く天災地災に苦しめられ、風俗華美で贅沢という元禄時代の時勢のために、国用が窮乏し、宝永1年(1704)再度の銀札を発行した翌年に死去する。

宝永2年(1705)7月18日没。享年52。墓は東京都渋谷区祥雲寺。

有馬頼元筆の色紙(久留米市民図書館蔵)

『色香をは おもゐもいれす 梅の花 つねならぬよに よそへてそ見る』

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資料:

・久留米市史

・久留米人物誌(篠原正一)

・久留米小史(戸田乾吉)

・筑後久留米有馬藩歴史之旅(篠原盛義)

有馬家 家紋

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